黒羽藩概要: 黒羽領は古くから那須氏の家臣大関氏が支配してきた地域です。大関氏は那須七党(那須七騎)と呼ばれ那須氏の有力家臣でしたが豊臣秀吉による小田原の陣で秀吉に謁見することで独立を図り、1万3千石が安堵されます。関ヶ原の戦いで東軍に組し対上杉景勝の拠点の1つとなった事で7千石が加増され2万石(4代藩主増親の代で弟の増栄と増君にそれぞれ1千石を分知した為、以降は1万8千石となった。)の大名となり黒羽藩を立藩、明治維新まで続きます。11代藩主増業は黒羽藩を中興した名君として藩政改革に努めただけでなく兵学や医学、天文学など広教養の身に付けた人物として知られ。戊辰戦争では新政府軍に組し、棚倉城(福島県棚倉町)攻略戦や三斗宿奪還作戦に従軍し功を上げています。
黒羽藩歴代藩主
| 藩主名 | 藩主年間 | 石高 | 備考 |
初代 | 大関資増 | 1596〜1605 | 2万石 | |
2代 | 大関政増 | 1605〜1616 | 2万石 | |
3代 | 大関高増 | 1616〜1646 | 2万石 | |
4代 | 大関増親 | 1646〜1662 | 1万8千石 | |
5代 | 大関増栄 | 1662〜1668 | 1万8千石 | |
6代 | 大関増恒 | 1668〜1738 | 1万8千石 | |
7代 | 大関増興 | 1738〜1763 | 1万8千石 | |
8代 | 大関増備 | 1763〜1764 | 1万8千石 | |
9代 | 大関増輔 | 1764〜1802 | 1万8千石 | |
10代 | 大関増陽 | 1802〜1811 | 1万8千石 | |
11代 | 大関増業 | 1811〜1824 | 1万8千石 | |
12代 | 大関増儀 | 1824〜1848 | 1万8千石 | |
13代 | 大関増昭 | 1848〜1856 | 1万8千石 | |
14代 | 大関増徳 | 1856〜1861 | 1万8千石 | |
15代 | 大関増裕 | 1861〜1867 | 1万8千石 | |
16代 | 大関増勤 | 1867〜1871 | 1万8千石 | |
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那須神社−那須神社は長く那須地方を統治した那須家の氏神でしたが、黒羽藩の藩主大関家は一族だった事から、那須家が没落した後は大関家主体となり篤く庇護しました。特に寛永19年(1642)には3代藩主関土佐守高増により那須神社社殿の造営が行われおり、その内、本殿と楼門が現存し共に国指定重要文化財に指定されています(芦野石製の石燈籠2基と手水舟も同年に高増より寄進されたもので、附:国指定重要文化財)。その他にも、天正5年(1577)には大関美作守高増から銅製鰐口(栃木県指定重要文化財)が寄進され、例祭の際には藩主自ら那須神社に参拝を行い、奉納される太々神楽、獅子舞、流鏑馬の行事などを観賞したと伝えられています。
那須温泉−那須温泉は大関藩が管理し、湯本奉行と呼ばれる役職までありました。安政5年(1858)の暴風雨による山津波の際には14代藩主大関増徳の命により現在地に温泉街を移転させ、15代藩主大関増裕は那須温泉に程近い茶臼岳から硫黄の採掘を行い、さらなる開発を行っています。大関増裕は幕政にも参画し、陸軍奉行や海軍奉行、若年寄など要職を歴任し幕府の将来を嘱望されていましたが、銃猟の際に謎の死(暗殺説有)を遂げています。当時の黒羽藩は石高こそ低かったものの、西洋式の軍備の移行を終え、幕府にとっても重要な戦力として見込まれていましたが、16代藩主大関増勤は一転して新政府に転じています。
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