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天童藩概要: 当初は高畠に陣屋を構え高畠藩を称していましたが領地的には天童付近が多かった為、天保元年(1830)に天童に陣屋を設けて天童藩を立藩します。織田家は本能寺の変で信長と嫡男である信忠が死去すると急速に衰退し、嫡孫である秀信(三法師)は関が原の戦いで西軍に組した為、改易となり事実上徳川家康により命脈が絶たれました。信長次男信雄も当初は大大名として大きな影響力を持ちましたが、豊臣秀吉と対立し為、大きく石高が減らされ2万石程度の大名となりました。江戸時代当初は信雄4男の信良が小幡藩(群馬県甘楽町)2万石で与えられていましたが、明和4年(1767)山県大弐の明和事件に連座し、石高は同石ながら事実上懲罰的な高畠藩の移封となり国持大名の格式も剥奪されました。天童藩に移ると藩の運営的には効率があがりましたが慢性的な財政悪化には歯止めが利かなく、常に逼迫した状況が続きました。戊辰戦争の際には重臣である吉田大八が新政府軍の奥羽鎮撫使先導役に抜擢され東北諸藩の主導的な立場となりましたが、庄内藩の猛攻により敗退し陣屋や陣屋町も戦火により焼失しました。その後、天童藩は奥羽越列藩同盟に参加した事もあり吉田大八は切腹、新政府軍に降伏後は2千石が減封となっています。
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天童藩歴代藩主
| 藩主名 | 藩主年間 | 石高 | 備考 |
初代 | 織田信美 | 1830〜1836年 | 2万石 | |
2代 | 織田信学 | 1836〜1868年 | 2万石 | |
3代 | 織田信敏 | 1868年 | 2万石 | |
4代 | 織田寿重丸 | 1868〜1689年 | 2万石 | |
5代 | 織田信敏 | 1869〜1871年 | 1万8千石 | |
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天童藩 |
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天童藩:町並み |
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天童藩城下町:名所・旧跡 |
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