東北の湖沼(十和田湖・田沢湖・十二湖・猪苗代湖・十三湖)

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十和田湖

十和田湖

十和田湖概要: 十和田湖に伝わる伝説、所謂、「三湖伝説」の概略は、「熊野修験の南祖坊と、十和田湖の主八郎太郎が7日7晩戦い抜き南祖坊が勝利、八郎太郎は米代川を下り、現在の二ツ井町で川を堰き止め棲家となる湖を造ろうとして失敗、さらに日本海に出て、男鹿嶋と本土を繋げる事で八郎潟を造り、十和田湖田沢湖の主辰子姫と結婚し2人は田沢湖で暮らし、八郎潟は主が居なくなり浅瀬になった。」とされます。よく言われる解釈としては1つは宗教対立とされ、八郎太郎は十和田湖を自然崇拝した、主に蝦夷又はアイヌの人々から継承されていた古代信仰の象徴で、熊野信仰が当地方に広げた修験者達の象徴が南祖坊とし、熊野修験が自然崇拝を一掃した行為が南祖坊が八郎太郎に勝ったという伝説になったとされます。勝利者となった南祖坊はとことん強く、敗者である八郎太郎何度も何度も敗北や失敗を重ね安住の地とされた田沢湖にも南祖坊が侵攻し窮地に追い込まれ、最後には辰子姫に助けられるといった結末を迎えています。又、南祖坊は青森県八戸市の豊崎に鎮座する七崎神社の別当寺院で実際修行していたとの記述がある事から実在した人物とする説もあり、十和田湖の畔に鎮座する十和田神社は、八郎太郎に勝利した南祖坊が死後、青龍となり祭神として祀られたとの伝承がある一方、十和田湖を霊場として開いた南祖坊が後に神格化され祭られたとする方が自然の成り行きかもしれません。南祖坊が十和田湖を開いたのは平安時代後期とされるますが、延喜5年(915)には十和田火山が噴火し特に秋田県側で大きな被害を受けています。南祖坊と八郎太郎との戦いには雷や血吹雪など噴火活動を思わせる表現が多く、敗れた八郎太郎は川を堰き止めて湖を造ろうとしたなど、実際起こった事を伝説に織り込ませたとも考えられます。奥入瀬渓流も元々深い渓谷だったのが、この戦いの後に現在のような渓流になったとしています。

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田沢湖

田沢湖

田沢湖概要: 田沢湖は上記の十和田湖と同様「三湖伝説」に組み込まれています。伝説の概略は「田沢湖の湖畔で暮らしていた田沢湖辰子は自分の美しい姿を永遠に保ちたいと、日頃から信仰している大蔵観音に百日参りを行うと、満願の日の晩に、霊泉の場所と霊水を飲むと念願成就すると御告げありました。翌朝、辰子は告げらた場所から湧き出る霊水を飲むと、あまりの美味さに何度も口を運び、いざ止めようと思ったら、今度は急に喉の渇きを覚え霊水を飲み干すまで続けました。辰子はやっと満足すると手足から鱗が生え、さらには姿かたちまで龍となり、人里で暮らす事が出来なくなり田沢湖の主となったそうです。夜になっても辰子が帰らなかった事から心配した母親は田沢湖まで探しにくると、人の姿に戻った辰子が事情を話し泣きながら暗い田沢湖へと帰って行き、母親は暗いのを難儀と思い、松明を田沢湖に投げると松明は「クニマス」に姿を変え辰子と共に湖底に姿を消しました。」と伝えられています。その後は、上記の伝説同様、八郎潟の主となった八郎太郎と共に南祖坊との最終決戦で何とか勝利し、2人で田沢湖に住み続けたとされます。辰子姫も自然崇拝の象徴とされ上記の解釈からすれば熊野信仰は田沢湖周辺では浸透しなかったとも考えられますが、室町時代には既に熊野系の修験が田沢湖に御座石神社を創建し、江戸時代には久保田藩主佐竹家も御座石神社を崇敬庇護しています。

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猪苗代湖

猪苗代湖

猪苗代湖概要: 猪苗代湖には次ぎのような伝説が残っています。「弘法大師空海が巡錫で当地を訪れた際、猪苗代湖喉の渇きを覚え一杯の水を求めましたが、何処の村の人達も求めに応じてくれず、唯一翁と呼ばれる貧しい少女だけが米のとぎ汁を快く与えてくれました。翌日、磐梯山が噴火して大きな被害となり空海の求めを断った村々は全滅し娘のいる村は何の被害がなかったと伝えられています」。別の伝説では「猪苗代湖畔の庄屋に春先、1人の若者が働き口を求めて訪ねてきたので快く受け入れると、その若者は祭日や昼休みを取らず、常人では考えられない程よく働き、周囲の庄屋連中からも羨まれ、娘の婿に欲しいとの縁談がある程でした。ある日、その若者部屋から人間のものとは思えない鼾がしたので庄屋が静かに戸を開け覗いて見ると、布団の上には大蛇が横たわっていました。庄屋は気付かなかった振りをしましたが、若者は、その態度から正体がばれたことを悟り、庄屋に自分は猪苗代湖の主で、自分が猪苗代湖を離れている最中に大ウナギが猪苗代湖を乗っ取って悪さをしているので、そのウナギを退治して再び猪苗代湖の主になる為、人の姿に変え様子を窺っていた事を告げました。そういえば、ここ数年猪苗代湖では不漁が続き湖畔の漁師達も困っている事を庄屋も知っていた事から、家宝として伝わっていた霊刀を若者に与え戦勝を祈願しました。決戦の日、若者は自分が負けたら何も起こらず、自分が勝ったら猪苗代はウナギの血で湖面が真っ赤に染まるだろうと告げ姿を消しました。翌日、猪苗代湖の湖面が真っ赤になり庄屋は若者(大蛇)の勝利を確信し、豊漁が続いたと伝えられています。」

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十二湖

十二湖

十二湖概要: 十二湖には次ぎのような伝説が残っています。「昔、川の畔で洗濯をしていた3人の若い娘がいました。そこに身なりの汚い旅の老僧が食事を請うと、十二湖一番と二番の年上の娘は断るどころか悪口を言い放し老僧をこき下ろしました。一番年下の娘は他の者に見つからないように、裏に老僧を呼び出すと昨日の残り物を授けました。すると老僧は大変感謝し、娘に、この川がもし濁る事があったら、急いで高台に引越しなさいと告げて姿を消しました。数日後、川が濁った事から娘は村人に老僧の言葉を話しましたが、誰も信じなく自分の家族だけ高台に引っ越すと間も無く、大地震と大暴風が起こり、山が崩れ集落を飲み干してしまったと伝えられています」。十二湖や湖面が青い色として知られる青池は学術的には宝永元年(1704)の能代大地震により形成したとされているので、上記の伝説が本当ならば江戸時代中期の話という事になります。又、別の伝説では「十二湖の湖畔に初姫と花姫という2人の年頃の娘が住んでいました。姉である初姫は心優しかったが容姿は醜く、妹の花姫は容姿端麗でしたがずるがしこい性格でした。ある日、2人に岩木山と白神山から懇意の打診がありましたが、2人とも津軽一霊山である岩木山と結婚したかったのですが、岩木山には美人という理由で妹である花姫がもらわれていきました。初姫は自分の醜さに失望し来世に美人になる事を願い十二湖の大池に身投げすると、雨の後には初姫が姿を変えた綺麗な虹がかかるようになったと伝えられています。」

十三湖

十三湖

十三湖概要: 十三湖は現在、全国有数の蜆の産地ですが、往時は複数の川が流れ込んでいた事から、十三湖日本海から数多くの物資が一端十三湖の湖畔にある、十三湊を経由して津軽各地に運ばれるという交通の要衝でした。中世には十三湊に隣接する福島城を本拠に津軽半島一円を支配した安東家が台頭し、日本海沿岸に大きな影響を及ぼしました。安東家は、前九年合戦で源頼家に敗れた安倍氏の後裔を自称していますが、歴史的な根拠が無く謎に包まれている一族です。昭和初期に発見された「東日流外三郡誌」は事実と伝承にフィクションを織り交ぜた、所謂、「偽書」に近いものでしたが、当時は有力の資料として、公的機関が発刊した歴史書にも大きな影響を与えた為、なおさら安東家という存在が良く分からなくなっています。例えば、安東家の衰退した原因の1つとして十三湖に大津波が来襲して、十三湊が壊滅的な被害を受けたとされますが、科学的な調査を行うと十三湖にそのような形跡は一切無い事が分かっています。ただし、福島城や十三湊遺跡、山王坊遺跡などから往時の安東氏は相当大きな権力と財力があったのは間違い無く、現在の福井県小浜市にある羽賀寺の大檀那になるなど広域に活動していたのも事実です。又、十三湊も室町時代末期に編纂された「廻船式目」の中で日本の10大港である「三津七湊」として記載されている事から、全国的にもかなり知られた存在だった事が分かります。江戸時代に入ると弘前藩領に属し、藩からは弘前藩4浦又は津軽4浦又は津軽九浦などとして重点的に整備、保護され北前舟の寄港地にもなりました。明治時代以降は衰微して往時の港湾都市だった面影は余り感じられなくなっています。

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