東北地方の古代城柵

秋田県の街並み秋田県の城下町>東北の古代城柵(多賀城,・秋田城・払田の柵・城輪柵・徳丹城・志波城・胆沢城)


多賀城

多賀城

多賀城概要: 多賀城案内板によると「多賀城跡は、この附近の丘陵一帯の市川、浮島両地区にかけて所在しています。仙台平野の北端に位置しており、南に太平洋を望むことができます。東には国府の港と推定される塩竈の港をひかえるなど、古くから交通の要衡でした。今からおよそ1300年前、奈良時代前半に陸奥国の国府として創建された多賀城は、鎮守府としての役割も果していました。多賀城は、周囲が堀(おもに築地土塀)をめぐらし、その痕跡は現在でも土手状の高まりとして残っています。多賀城の平面形は、不整方形をなし、広さはほぼ方八町に相当します。そのほぼ中央部に重要な政務や儀式が行われた政庁があります。・・・(後略) 多賀城市教育委員会」 とあります。

秋田城

秋田城

秋田城概要: 秋田城秋田城は天平5年(733)に造営された対蝦夷の拠点になった古代城柵です。当初は「出羽柵」と呼ばれ、天平宝字4年(760)「秋田城」となったようです。当時の東北の日本海側の政治、文化、軍事の中心でした。奈良時代には「国府」が置かれ、遠く「渤海」まで交流がありました。秋田城は周囲550m四方を築地塀(基底幅2.1m、高さ3m)で囲まれ、政庁部は東西94m、南北77mあります。延暦23年(804)になると蝦夷の反抗が大きくなり、秋田城に置かれていた国府が移転し秋田郡に格下げになりました。その後も軍事的な役割は続けていた為、元慶2(878)の乱、天慶2年(939)の乱と2つの大きな蝦夷の攻撃を受けています。その後1050年前後の前九年の役を境にして秋田城は衰退したと考えられています。現在は、秋田城の東門や築地塀の一部が復元されて、高清水公園として秋田市民の憩いの場所になっています。

払田柵

払田柵

払田の柵概要: 払田の柵大仙市高梨ある払田の柵はとても謎の多い遺跡です。9世紀前後に建てられた古代の城柵で、その規模は広大で東西方向1,370m、南北方向780m、163,000uに及びます。秋田城や多賀城(宮城県多賀城市)にも匹敵する大きさで、雄勝城と秋田城の中間に位置し胆沢城(岩手県奥州市水沢区)などの位置関係からかなり重要な施設だと思われるのですがその存在が文献にまったく出てこないそうです。文献上の地名が現在とは異なる点や、かなり国府や城柵が移動していることからも、払田の柵は雄勝城説や河辺国府説など多数ありますが確定はしていません。払田の柵は外柵と外郭の2重構造なっていて、共に東西南北4つの門が設置され防衛しています。外柵の一部は田んぼの中から発見されています。長森(標高54m)と真山(標高64m)の2つの頂を持ち、長森の中央を平坦地に造成し、政庁など主要建築物を配しています。現在は外郭南門が復元され10世紀前後の政庁跡に柱位置がわかるように整備されています。払田の柵は国指定史跡に指定されています。

城輪柵

城輪柵

城輪柵概要: 城輪柵城輪柵は奈良時代末期に秋田城より移設された出羽国府跡の最有力と見られる古代城柵跡です。総面積は52万uあり一辺が焼く720m四方の方形で、中央に115mの築地塀で囲まれた政庁がありました。政庁には正殿と後殿の間には目隠塀が設けられ、東西には脇殿、附属舎などの施設、南門、東門、西門の3つの門が建てられました。南門が城輪柵の正門にあたり、外側に東西両方に建物跡が発見され、門から真直ぐに南大路が伸びていました。西門から直線上で外郭西門跡が見つかり、その他にも外郭内部には井戸や20棟を越える住居跡などが発見されています。現在は政庁南門、東門、築地塀、目隠塀などが復元され歴史公園として整備されています。又、城輪柵跡は昭和7年に国指定史跡に指定されています。

徳丹城

城輪柵

徳丹城概要: 徳丹城案内板によると「徳丹城は、西暦812年(弘仁3年)の3月頃、時の征夷大将軍・文室錦麻呂によって造られた律令制最後の城柵である。雫石川の水害で被害を受けた志波城(盛岡市太田)を解体し、遷し建てられたもので、造営工事には2000人もの鎮兵が動員された。遺跡の形状は概ね正方形を示し、その大きさは一辺約350mある。北辺を除く東・西・南の三辺は丸太が並び立つ柵列であったが、北辺のみは築地と呼ばれる土塀であった。・・・(後略) 矢巾町教育委員会 」とあります。徳丹城は八脚門が中央に、17棟の櫓が約70m間隔で外郭線上に建てられましたがその後、9世紀の中頃から急速に機能が低下していきます。徳丹城跡は国指定史跡となっています。

志波城

志波城

志波城概要: 志波城志波城は延暦22年(803)北上川と雫石川合流付近に造営された古代城柵です。前年に坂上田村麻呂が蝦夷の首長アテルイを滅ぼしたことで朝廷の支配地域が一気に北上、雫石地方以北の蝦夷への戦略的拠点、出羽国秋田城への交通の確保という役割からこの地が選ばれたと思われます。志波城の構造は928m四方を大溝(堀)と土塁によって囲まれ、さらに内側には重厚な築地塀が配置され2重によって区画されている強固なものでした。内部には政庁を設け、その外側には築地塀で囲むなど国府多賀城と同等な施設がこの地に造営されました。しかし、10年後、雫石川氾濫で壊滅的な被害を受け、南方の徳丹城が新たに造営され志波城の機能が移されました。現在の志波城は発掘調査が進み、外郭南門や築地塀などが順じ復元され「志波城古代公園」として整備されています。国指定史跡。

胆沢城

胆沢城

胆沢城概要: 胆沢城胆沢城は延暦21年(802)に坂上田村麻呂が築いたとされています。水沢一帯は蝦夷の一大拠点の一つで、俘囚の長であるアテルイやモレは宝亀7年(776)、延暦13年(789)、延暦20年(801)と朝廷軍と戦っています。延暦20年(801)の戦い後、アテルイとモレは捕縛され平安京で惨殺たことで周辺の俘囚の乱は一応平定されます。翌年から領土経営の為に胆沢城が築かれます。胆沢城の政庁は一辺が90m程で、周囲を土塀で回し、正殿や東西の脇殿が配置されていました。南門前にはさらに門を設け「政庁前門」とし、周囲から「殿門」や「招殿門」などと書かれた漆紙や土器などが発見されている事から「殿門」と呼ばれていたようです。この門は外郭南門の間は延長130m、幅15mの直線の道で繋がれ朝廷の権威を示す象徴のような役割があったと推定されています。大同8年(808)には鎮守府が多賀城(宮城県多賀城市)より移され、文字通り、対蝦夷への最大の拠点となっていきます。その後、「前九年合戦」、「後三年合戦」までは、政庁としての機能があったようですが、二つの合戦で安倍氏、清原氏などの俘囚の長が淘汰された事もあり、次第にその重要性が薄れていったようで?。胆沢城は大正11年に国指定の史跡となっています。

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