郡上藩

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概要・歴史・観光・見所
郡上藩概要:  慶長5年(1600)の関が原の戦いの際、遠藤慶隆は八幡城攻めで功を上げ2万7千石で旧領に復帰し郡上藩を立藩、領内の基礎を整備する一方で彦根城や駿府城、名古屋城などの築城や大坂の陣などで活躍し幕府から厚い信任を得ています。3代遠藤常友は弟である常昭に2千石、常紀に1千石を分与し2万4千石になりますが新田開発や鉱山開発、歌集常縁集編纂などの事業などを行っています。元禄5年(1692)、5代藩主遠藤常久は家臣に毒殺され享年7歳という幼少だった事から跡継ぎがいなく改易になる寸前でしたが、存続が認めら一族である遠藤胤親が跡を継ぎ三上藩(現在の滋賀県野洲市)1万石で移封になりました。代わって井上正任が笠間藩(現在の茨城県笠間市)から5万石で入封、しかし、元禄10年(1697)2代藩主井上正岑が亀山藩(京都府亀山市)に4万7千石で移封となり、金森頼時が上山藩山形県上山市)から3万8千石で入封します。頼時は奏者番など幕府の要職を歴任し江戸藩邸の再建などで出費が嵩み、年貢により増収を図った為農民達と対立し宝暦4年(1754)には江戸時代最大級の一揆と云われる郡上一揆が勃発、さらに石徹白騒動などが領内に発生し宝暦8年(1758)2代藩主金森頼錦は改易となりました。青山幸道が宮津藩(現在の京都府宮津市)から4万8千石で入封すると、法整備など規律を強めますが財政の悪化は止められず安政3年(1856)には5万両以上の借財を抱えました。幕末は親族藩である大垣藩と共に新政府軍に属し飛騨警備を行いますが、一部の藩士が凌霜隊を結成し各地を転戦し鶴ヶ城(福島県会津若松市)にも入城し新政府軍と交戦しています。
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郡上藩歴代藩主
 藩主名藩主年間石高備考
初代遠藤慶隆1600〜1632年2万7千石 
2代遠藤慶利1632〜1646年2万7千石 
3代遠藤常友1646〜1676年2万4千石 
4代遠藤常春1676〜1689年2万4千石 
5代遠藤常久1689〜1692年2万4千石 
初代井上正任1692〜1693年5万石 
2代井上正岑1693〜1697年5万石 
初代金森頼時1697〜1736年3万8千石 
2代金森頼錦1736〜1758年3万8千石 
初代青山幸道1758〜1775年4万8千石 
2代青山幸完1755〜1808年 4万8千石 
3代青山幸孝1808〜1815年4万8千石 
4代青山幸寛1815〜1832年4万8千石 
5代青山幸礼1832〜1838年4万8千石 
6代青山幸哉1838〜1863年4万8千石 
7代青山幸宜1863〜1871年4万8千石 

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