太田宿の町並の景観や歴史

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宿 場 名
場  所
備  考
・太田宿・岐阜県美濃加茂市太田本町3丁目 
概    要
・当地の古代は、鴨県主一族の根拠地だったと見られ、祖神を祭ったと思われる懸主神社の周辺には、一族が被葬者だったと推定される古墳が多数見られます。

平安時代には藤原摂関家の荘園と思われる蜂屋庄に属し、長寛元年(1163)頃に記録されたと思われる美濃国諸庄未進注文に記された「□田百疋」は「太田」の事と推定されています。

鎌倉時代は近衛家領だったと見られ、近衛家所領目録の建長五年(1253)一〇月二一日条には「蜂屋太田資平卿」と記されています。

「資平卿」とは参議を務めた源顕平の子供である源資平の事とされ、資平は近衛家実の娘、鷹司院(後堀河院后)に仕え、近衛家の補任を受け預所として蜂屋太田郷を管理していたと思われます。

正応三年(1290)に近衛家に対して布を調進していた事を記録した宝帳布所進諸庄目録によると「一段 蜂屋太田」と記され、引き続き近衛家の荘園だった事が窺えます。

江戸時代に入ると当初は天領だったものの元和元年(1615)以降は尾張藩に属し、中山道が開削されると51番目の宿場町として整備されました。

「濃州徇行記」によると当初は内田渡で木曽川を渡り善師野宿を経て土田宿に到る経路でしたが、江戸時代初期に太田渡へ付替えられています。

当地は中山道から飛騨街道と郡上街道が分岐する交通の要衝で、「太田の渡し」は中山道三大難所の一つであった事から、尾張藩から重要視されました。

天明2年(1782)に尾張藩は太田宿に太田代官所を設置し、藩領の美濃国中部・東部に当たる美濃国加茂郡、恵那郡、土岐郡、各務郡、武儀郡、可児郡内の支配・管轄させました。

中山道の宿場町としては鵜沼宿、太田宿、伏見宿、御嵩宿、細久手宿大湫宿大井宿中津川宿、落合宿が含まれ、支配領域は合計130カ村 惣高5万6千3百余石、内蔵入地3万7千7百石弱、給地1万8千7百石弱に上っています。

太田代官所は寛政6年(1794)には地方勘定奉行となり、慶応4年(1868)には北地総管所と改名されています。

又、北地総管所の総管だった田宮如雲の下で働いていた平右衛門の子供が明治時代から昭和初期に日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家として名を馳せた坪内逍遥とされます。

太田宿に隣接する太田湊は木曾川上筋四湊の一つに数えられた水上交通の要衝だった事から、尾張藩は木曽谷で伐採した材木を筏に組んで木曽川で熱田湊へ送る組織である錦織川並材木奉行所の支配下の川並番所を設けました。

当初は隣接する土田宿と合宿でしたが、木曽川の流れが変化し、土田宿にあった渡し場の位置が上流に遷った為、土田宿は廃宿となり、元禄7年(1694)に代わって伏見宿が開宿した事から、それに伴い太田宿も独立した宿駅となっています。

天保14年(1843)の記録によると人口505人、家屋108軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠20軒、問屋3軒、上町、仲町、下町に町割りされ、宿場の長さ六町十四間、宿場の入口には桝形が設けられています。

太田宿本陣職を歴任した福田家は宿村取締役、総年寄、庄屋、木曽川留木裁許役等の要職を歴任した、当地を代表する氏族で、名字帯刀が認められています。

特に江戸時代末期の当主である福田太郎八は溜池の築造や貧民救済、荒廃寺の救済、学問の振興、養蚕奨励等に尽力し、文久元年(1861)に皇女和宮が14代将軍徳川家茂に降嫁の際には宿所となっています。

勤皇思想に傾倒していた事から元治元年(1864)に水戸天狗党が太田宿を訪れた際には、武田耕雲斎等の幹部を邸宅に招いて苦労を労っています。

脇本陣を担った林家は太田村の庄屋も兼任し、豪商でもあった事から尾張藩勘定所の御用達を務め、醸造業や質屋なども生業としていました。

明治維新後に脇本陣が廃止になった後も旅館業を継続していた為、槍ケ岳を開山した播隆上人や、板垣退助も宿所として利用しています。

現在も、旧太田宿脇本陣林家住宅には主屋、表門、質倉、借物倉、隠居家、便所、井戸屋等が残され、貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。

現在も街道沿いには旧脇本陣や本陣の表門、旧小松屋吉田家住宅、御代櫻醸造、祐泉寺等が点在し、宿場町らしい雰囲気が残されています。

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