・細久手村は天正年間(1573〜1592年)に国枝与左衛門重円によって開村したのが始まりとされ、金山城の城主である森長可が苗木城に侵攻した際、天正11年(1583)5月25日に苗木を出立し、中山道を利用し細久手村で宿泊しています。
文禄4年(1595)には国枝与左衛門重円の霊夢に現在の滋賀県大津市に鎮座する日吉大社の祭神である大山咋神と、京都府京都市右京区嵯峨愛宕町に鎮座している愛宕神社の祭神である火産霊神の化身が出現し、その御告げにより細久手村の産土神として両社から分霊を勧請し日吉神社と愛宕神社を創建しています。
重円の出自は判りませんが、土岐家や斎藤家に従い本郷城の城主を歴任した国枝氏の一族かも知れません。
江戸時代に入り、改めて中山道が開削されると、大湫宿から御嵩宿まで4里半と比較的距離が長く、複数の峠が控え、移動には難儀だった事から、旅人や商人達の便宜を図る計画が成されました。
当地は大湫宿から1里半、御嵩宿まで3里に位置していた事から、慶長11年(1606)に中山道の整備を担当していた大久保石見守長安の命を受けた国枝与左衛門重円は7軒の仮宿を開いています。
しかし、放火によって仮宿は全焼した為、慶長15年(1610)には正式な、中山道の宿場町として整備され、細久手宿が開宿しています。
天保14年(1843)に記録された中山道宿村大概帳によると、細久手宿は尾張藩に属し、町並は東西に三町四拾五間、人口256人、男性134人、女性122人、家屋65軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠24軒、人馬継ぎ問屋2箇所だったとされます。
細久手宿の宿長は、国枝与左衛門重円が担っていましたが、慶安4年(1651)に死去すると、代わって白倉(日吉町)出身の小栗八郎右衛門家が本陣職と問屋、庄屋を担っています。
小栗氏の出自は判りませんが、現在の岐阜県可児郡御嵩町に位置する御嵩城の戦国時代の城主は小栗信濃守だった事から、慶長4年(1599)に御嵩城が廃城になると、一族の一部が白倉に土着したのかも知れません。
脇本陣も小栗氏一族である小栗八左衛門家が担い両家が細久手宿の運営に大きな影響力があったと思われます。
本陣は文化10年(1813)に記録された「濃州土岐郡細久手宿火事注進書」によると母屋が桁行13間、梁間4間半、茅葺、表門が桁行3間、梁間2間、茅葺、添家2棟、江戸時代末期の建坪約123坪。
文化元年(1804)、有栖川宮織仁親王の第6王女、喬子女王が12代将軍徳川家慶に輿入れした際や、嘉永2年(1849)に関白一条忠良の十四女一条秀子が13代将軍徳川家定に輿入れした際に本陣で宿泊しています。
文久元年(1861)、仁孝天皇の第8皇女、和宮親子内親王が14代将軍徳川家茂の輿入れの際にも、宿所として利用される計画でしたが、安政5年(1858)に発生した火災に本陣も被災した為、大湫宿の本陣が宿所に変更されています。
脇本陣は文化10年(1813)に記録された「濃州土岐郡細久手宿火事注進書」によると母屋が桁行13間、梁間4間半、茅葺、添家が桁行6間、梁間2間、江戸時代末期の建坪約62坪、天保14年(1843)に記録された中山道宿村大概帳によると、門構、玄関附。
細久手宿の人馬継ぎ問屋は本陣小栗家と平岩村出身の酒井吉右衛門家が歴任しています。
酒井氏は尾張藩主の常宿で「尾張藩定本陣」とされ、屋号として「大黒屋」を掲げ、一般的には脇本陣格として、他の大名も本陣や脇本陣が利用出来なかった場合は「大黒屋」を利用したようです。
現在も「大黒屋」の建物は現存し、式台付の玄関や上段の間等、格式の高かった当時の姿を留め、貴重な事から国登録有形文化財に登録されています。
細久手宿は東から上町、中町、下町の3町で構成され、桝形は設けられず、代わりに上町と下町が弓型に町割りされました。
東側の宿場の入口付近には美濃瑞浪三十三霊場第客番札所に指定されている庚申堂が境内を構え、細久手宿の鬼門鎮護の役割を担っていたようです。
庚申堂の入口の西角には高札場が設けられ、中山道の通行賃、宿の決まり、キリシタンや博打の禁止等が記された札が掲げられていました。
又、江戸時代末期には岩村藩出身の儒学者として知られる佐藤一斎の甥、佐藤権造梅波が「望雲盧」と呼ばれた私塾を開塾しています。
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