・当地は古くから交通の要衝で、古代の官道である東山道が開削されると、その駅家である大井駅が設けられています。
文献的初見は「続日本後紀」承和七年四月二三日条で「大井駅家」として記されている事から、少なくとも平安時代初期には大井駅があった事が窺えます。
原則、美濃国内の東山道の駅家は一つの郡に対して1箇所ですが、同じ恵那郡に位置する坂本駅は、美濃国と信濃国の国境で難所として知られた神坂峠を控えていた事から、同じ郡内ですが坂本駅と土岐駅の間にある当地が交通上重要視され、大井駅が整備されたと推定されています。
中世に入ると、大井郷に属し、南北朝時代の公卿である近衛道嗣の日記である「愚管記」の貞治六年(1367)一一月一六日条には「遠山庄内大井郷」と記されています。
当時は安居院行知の知行地でしたが、近衛道嗣が書くのをためらう程の理由により、後光厳天皇の勅命で行知は参議を解任され、知行地だった美濃国気良庄と遠山庄内大井郷が没収されています。
さらに、行知は応安7年(1374)に大乗院教信と三宝院僧正光済と共に流罪となっています。
その後、大井郷は近衛家領となりましたが、応永元年(1394)に広橋仲光領となり、さらに、京都天龍寺香厳院領、長禄4年(1460)には香厳院修山和尚が守護不入の権利を得て、幕府奉行人飯尾之清がその別当職に補任されています。
文明5年(1473)には信濃国守護職小笠原家の分家で、信濃国伊那郡松尾城主である小笠原家長の侵攻を受け、当地には大井城が築かれ、家長の家臣である原秀行が配されています。
天文3年(1534)に府中小笠原家当主の小笠原長棟の侵攻を受け、松尾小笠原家の小笠原貞忠が武田家を頼り、甲斐国に落ち延びると、当地は遠山氏領となり、大井城には遠山家の家臣藤井宗常・藤井常守兄弟が配されています。
天正元年(1573)には甲斐武田家の侵攻を受け、当地もその支配下に入っています。
天正3年(1575)、長篠の戦で武田勝頼が敗北すると、織田家が当地まで台頭し、大井城は織田信忠に攻められ落城しています。
江戸時代に入り中山道が開削されると宿場町に指定され、慶長8年(1603)に発布された大久保長安伝馬控書写によると伝馬25匹、人足10人が定められています。
天保14年(1843)の記録によると、宿場内の家数は110軒・人口466人(男245人・女221人)、旅籠屋41軒(大4軒・中23軒・小14軒)、本陣1軒、脇本陣1軒、上問屋、下問屋で構成されていました。
町並みは東西六町半、横町・本町・竪町・茶屋町・橋場の5つの町があり、6箇所の桝形によってそれぞれの町が区切られていました。
宿場町で6箇所の桝形があるのは大変珍しく、防衛の為とも短い範囲で多くの町が町割りする為とも考えられますが、正確な理由は判っていないそうです。
大井宿は交通の要衝で、多くの旅人や商人が利用した事から中山道の美濃路の中では随一の宿場として栄えました。
尾張藩大代官に進んだ担当者が巡回して書留めた「濃州徇行記」によると「一体此宿は皆板屋にて町巾も広く都て旅籠屋かゝりよし、又農商を兼たる者など多くありて近村より色々調へ物に来り、相応に商ひも繁昌せり」と記されており、当時の繁栄が窺えます。
文久元年(1861)の皇女和宮が徳川将軍家へ降嫁の為、大井宿を通過した際には本陣である林邸で小休止し、屋敷の井戸の水で喉を潤したとされます。
和宮の水見役だった山城守はこの井戸水を「良水これに勝る水なし」と褒め称えた事から和宮泉と呼ばれれるようになったとされます。
現在も大井宿本陣跡には往時の表門が残され、岐阜県指定史跡に指定されています。
その他にも堅町の長屋門と本町の旧古山家住宅が貴重な事から恵那市指定文化財に指定されています。
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