大湫宿の町並の景観や歴史

  建築と街並み(ホーム)全国にある宿場町の町並の景観や歴史中山道>大湫宿
宿 場 名
場  所
備  考
・大湫宿・岐阜県瑞浪市大湫町 
概    要
・大湫村は、当地の土豪だった保々市左衛門宗昌によって天正年間(1573〜1592年)に開かれたとされ、元々は「大久手」と表記する10戸程度の小さな寒村でした。

保々氏は美濃国守護職を歴任した土岐氏の一族とも云われ、宗昌は美濃国守護職土岐成頼の子供である土岐頼房の娘を奥方に迎えています。

宗昌は慶長5年(1600)に発生した関ヶ原合戦に東軍に与した木曾衆に従軍し、合戦後は大湫村・藤村・北野村、合計300石が安堵されています。

同年にはさらなる開発を行い、保々家の菩提寺である宗昌寺を聖沢門派の法系智仙宗恵を招いて開山しています。

中山道が開削されると一定の宿駅の役割を果たし、慶長7年(1602)に駄賃定によると、御嵩宿から当地までの駄賃は荷物一駄四〇貫目につき永楽銭二四文と定められています。

慶長8年(1603)には仮宿に定められたようで、中山道の整備を行っていた大久保石見守長安の命により一〇人・二五疋の宿役を担うようになっています。

慶長9年(1604)に正式な宿場町として成立したようで、本陣は大湫宿の開発に尽力した保々宗昌の次男である安昌の子孫、中西保々市郎兵衛家が歴任し、千村方の庄屋、宿問屋等を兼任、一方、脇本陣は宗昌の長男である宗利の子孫、南保々長左衛門家が世襲しています。

当地域の中山道の経路は、開削当初、旧東山道である鎌倉街道を基に日吉本郷〜半原〜釜戸を経由していましたが、大久保長安の命により標高の高い細久手〜大湫ラインに定めたようです。

大湫の地は尾張藩領で、その支配下に組み込まれた旧木曽衆だった千村平右衛門家と山村甚兵衛家が折半で知行地として割り当てられています。

当地は木曽地方で産出される檜等の木材を管理する拠点として重要視された為、尾張藩は元禄7年(1694)に川並奉行所を設置し、奉行や役人、足軽等を常駐させています。

奉行所には役所の他、足軽長屋20棟等も整備されていましたが、天明年間(1781〜1788年)に縮小され同心級の役人5〜6名程度が務める白木改番所となり東濃地方一帯の山林と木材の管理を行っています。

天保14年(1843)の記録によると、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒、家屋66軒、人口338人、西町・神明町・中町・白山町・北町があり、北町と白山町の境には枡形が設けられていました。

大湫宿の産土神で鎮守である神明神社の境内には 「大湫宿に過ぎたものが2つあり、神明神社の大杉と観音堂」と詠われた推定樹齢1300年の大杉があり、享和2年(1802)に幕府の役人だった蜀山人が大坂に出張し、その帰り道で大湫宿を通過した際の様子を旅日記である「壬戌紀行」にも「駅の中なる左の方に大きなる杉の木あり、その元に神明の神社の宮を建つ、駅舎のさま細久手に似て、それよりも人家すくなし」と記され、岐阜県指定天然記念物に指定されていましたが、令和2年(2020)に倒木しています。

同じく、もう一つの鎮守である白山神社にも大杉があり、名古屋城改築の際には用材として利用する為、伐採するように命じられていたものの、断固として拒否していましたが、昭和22年(1947)に大湫中学校建設の際に伐採されています。

又、大湫宿に過ぎたものの、もう一つである観音堂は享保6年(1721)に現在地に遷された御堂で、道中安全・病気全快に御利益があるとして住民だけでなく、旅人や商人達からも参拝を受けました。

現在の観音堂は弘化4年(1847)に造営された建物で、天井絵60枚は三尾暁峯が手掛けた貴重なものとして、瑞浪市指定文化財に指定されています。

文化6年(1809)10月11日に7次測量で当地を訪れた伊能忠敬は本陣を担った保々市郎兵衛の邸宅を宿舎として利用しています。

文久元年(1861)10月28日には14代将軍徳川家茂へ御降嫁となった皇女和宮が本陣に宿泊し、大湫宿に招集された人数は2万8千人、馬は820頭、総勢約5千人の行列は前後4日間に分けて行われました。

現在も宿場町らしい、懐かしい町並みが残され、保々家住宅主屋、三浦家住宅主屋、森川訓行家住宅主屋、森川善章家住宅主屋が国登録有形文化財に登録されています。

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