恐山概要: 恐山(青森県むつ市)が何時頃から霊場と整備されたのかは不詳ですが、ある種の祖霊信仰が太古の昔から根付いたと思われます。 青森県を含め、隣接する秋田県や北海道などのストーンサークルで見られるように、何らかしらの祭祀場で祖先を弔うといった儀礼が祭礼が受け継がれたのかも知れません。恐山は日本三大霊地、日本三大霊場、日本三大霊山に数えられる一大霊場として知られ、荒涼として景観や、発ち込める硫黄臭、目前に広がる白浜や生き物の棲まない湖、それらを取り囲む山々、霊泉と呼ばれた温泉など何れも死者の世界を彷彿とさせる空間は当時の人々の目からも信仰するに相応しい聖地だったのではないでしょうか。
寺院が設けられたのは貞観4年(862)、平安時代の天台宗の高僧として知られた慈覚大師円仁によって開かれたのが始まりと伝えられています。何でも貞観2年(860)に山寺立石寺(山形県山形市)を開いた後に、恐山を開いたのだそうだ。本州最果ての地であるここ恐山に慈覚大師円仁のような高僧が何の頼りも無く寺院が開けるのかは不思議ですが、もし開いたのだとすると、少なくとも当時から恐山の聖地としての存在が中央にも聞こえていた事になります。
仏教思想が下北半島にも浸透すると、今度は地蔵信仰と祖霊信仰、自然崇拝などが習合し住民達には独特の宗教観が生まれました。特に、死者は一端恐山に登り、成仏するまでこの地に留まるとされ、その死者と「イタコ」を通じて話が出来るとし、地蔵信仰からは水子供養と賽の河原の出現という形で現れました。
恐山信仰はあくまでも津軽周辺での独自の信仰形態ですが、江戸時代前期には円空が訪れた可能性もあり(恐山菩提寺には下北半島で円空が彫刻したと思われる2体の円空仏を所有しています)、識者の間では知られた存在だったとも考えられ、民俗学の祖と言われる菅江真澄は調査や遊覧、湯治など合計5回も恐山を訪れ、当時の様子を詳しく記載しています。
恐山:動画
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