加賀藩概要: 加賀藩の藩祖とされる前田利家は加賀、越中、能登の3国100万石を領する大大名として豊臣政権下で大きな影響力を持ちましたが、慶長4年(1599)に死去、領地は嫡子利家が加賀、越中83万石、弟の利政が越中21万石で跡を継ぎました。慶長5年(1600)の関が原の戦いの際、利長が東軍、利政が中立を保った為、能登は没収の上で改めて利長に与えられ加賀藩120万石を立藩します(旧領に加え関が原の戦いで西軍の大聖寺城を攻略した為その領域である加賀西部が加増された。)。2代藩主前田利常が隠居する際、富山藩に10万石、大聖寺藩に7万石を分与し本藩である加賀藩は102万5千石となっています(その他に前田利家の5男前田利孝が大坂の陣で戦功を挙げ1万石を与えられ七日市藩(群馬県高岡市)を立藩、加賀藩の支藩(形式的には独立した藩ですが、加賀藩に依存する事も多かったとされます。)となっています。)。加賀藩の藩主となった前田家は外様大名最大の石高を有しているだけでなく、将軍である徳川家と積極的に婚姻関係を結び親藩大名とほぼ同等の扱いを受け格式も徳川御三家(尾張藩・紀州藩・水戸藩)に準ずる待遇を受けたとされています。加賀藩の体制も外様大名では異例で本城である金沢城以外にも支城として小松城(石川県小松市)が認められ、ほとんど城郭を維持した高岡町奉行所(高岡城:富山県高岡市)や魚津町奉行所(魚津城:富山県魚津市)が設けられていました。さらに、加賀八家と呼ばれる家臣団は本多家(5万石)・長家(3万3千石)・横山家(3万石)・前田土佐守家(1万1千石)・前田対馬守家(1万8千5百石)・嫡流奥村家(1万7千石)・支流奥村家(1万2千石)・村井家(1万6千5百石)といずれも諸侯並みの知行地を持っていました。
加賀藩歴代藩主
| 藩主名 | 藩主年間 | 石高 | 備考 |
初代 | 前田利長 | 1599〜1605年 | 120万石 | |
2代 | 前田利常 | 1605〜1639年 | 120万石 | |
3代 | 前田光高 | 1639〜1645年 | 103万石 | |
4代 | 前田綱紀 | 1645〜1723年 | 103万石 | |
5代 | 前田吉徳 | 1723〜1745年 | 102.5万石 | |
6代 | 前田宗辰 | 1745〜1746年 | 102.5万石 | |
7代 | 前田重煕 | 1746〜1753年 | 102.5万石 | |
8代 | 前田重靖 | 1753年 | 102.5万石 | |
9代 | 前田重教 | 1753〜1771年 | 102.5万石 | |
10代 | 前田治脩 | 1771〜1802年 | 102.5万石 | |
11代 | 前田斉広 | 1802〜1822年 | 102.5万石 | |
12代 | 前田斉泰 | 1822〜1866年 | 102.5万石 | |
13代 | 前田慶寧 | 1866〜1871年 | 102.5万石 | |
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加賀藩と白山比盗_社−白山比盗_社(石川県白山市)は白山信仰の加賀国(石川県)側の中心的な存在で、加賀国一之宮として大きく繁栄していましたが、室町時代中期以降は一向一揆衆の台頭により多くの末社、末寺が破却され衰退の一途をたどっていました。織田信長の北陸侵攻により一向一揆衆が掃討された後の豊臣政権下の時代、正親町天皇から白山比盗_社再興の綸旨を領主である前田利家が賜ると、天正14年(1586)には社領の安堵が行われ、文禄5年(1596)には利家の尽力により現在地に新たな社殿が造営されました。江戸時代に入り加賀藩が立藩すると、藩主となった前田家は祈願所として篤く庇護し、2代藩主前田利常は太刀(銘:行光・石川県指定文化財)を奉納、明暦3年(1657)には4代藩主前田綱紀が母親の冥福を祈念して剣(銘:吉光・国宝)を奉納、明和7年(1770)には9代藩主前田重教が白山比盗_社の本殿(石川県指定文化財)を造営しています。
加賀藩と菅原道真−加賀藩の藩主前田家は菅原道真の後裔を自称する一族だった為、家紋として梅鉢を掲げ、菅原道真を主祭神とする天神信仰を篤く信仰しています。加賀藩では特に小松天満宮(石川県小松市)を特別視し、本城である金沢城の南西方向の裏鬼門鎮守、支城である小松城から見ると北東方向の鬼門鎮守、そして東側は白山、西側を日本海を望む絶好の要地に、本社となる北野天満宮から分霊を勧請しました。境内は北野天満宮を模し、1/4に縮小した伽藍配置として、社殿は加賀藩のお抱え大工山上善衛門が手掛けました。同様に、石川県加賀市大聖寺に鎮座し、加賀国二之宮である菅生石部神社は、中世に境内周辺が北野天満宮の荘園だった事から天神信仰が盛んになり江戸時代に入ると加賀藩前田家から庇護され、数多くの社宝が寄進されました。
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