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大聖寺藩概要: 寛永16年(1639)、加賀藩2代藩主前田利常が隠居する際、本藩である加賀藩を嫡子である光高に102.5万石で継がせ次男前田利次に富山領10万石を、3男利治に大聖寺領7万石を与え大聖寺藩が立藩しました。元禄5年(1692)、3代藩主前田利直は、弟の利昌に1万石を与え大聖寺新田藩を立藩させましたが、宝永6年(1709)5代将軍徳川綱吉の葬儀が寛永寺で行われた際、同じ御馳走役を命じられていた大和柳本藩主織田秀親を殺害した罪で切腹となり大聖寺新田藩は廃藩となりました(藩領1万石は一時没収の後、大聖寺藩の藩領となりました。)。文政4年(1821)、8代藩主前田利孝は新田開発の増収分と本藩である加賀藩の援助で10万石に高直しを行っています。石高は中規模でしたが江戸時代を通じて城主格ではなく、一国一城令で廃城になった大聖寺城の麓に陣屋を構え、ここを藩庁としました。10万石に高直し後は10万石の格式を得ましたが格式を維持する為の出費が嵩み財政が逼迫しています。
大聖寺藩歴代藩主
| 藩主名 | 藩主年間 | 石高 | 備考 |
初代 | 前田利治 | 1639〜1660年 | 7万石 | |
2代 | 前田利明 | 1660〜1692年 | 7万石 | |
3代 | 前田利直 | 1692〜1710年 | 7万石 | |
4代 | 前田利章 | 1711〜1737年 | 7万石 | |
5代 | 前田利道 | 1737〜1778年 | 7万石 | |
6代 | 前田利精 | 1778〜1782年 | 7万石 | |
7代 | 前田利物 | 1782〜1788年 | 7万石 | |
8代 | 前田利考 | 1788〜1805年 | 10万石 | |
9代 | 前田利之 | 1806〜1836年 | 10万石 | |
10代 | 前田利極 | 1837〜1838年 | 10万石 | |
11代 | 前田利平 | 1838〜1849年 | 10万石 | |
12代 | 前田利義 | 1849〜1855年 | 10万石 | |
13代 | 前田利行 | 1855年 | 10万石 | |
14代 | 前田利鬯 | 1855〜1871年 | 10万石 | |
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大聖寺藩と菅原道真−大聖寺藩の藩主前田家は菅原道真の後裔を自称する一族だった為、家紋として梅鉢を掲げ、菅原道真を主祭神とする天神信仰を篤く信仰しています。特に加賀国二之宮である菅生石部神社は、中世に境内周辺が北野天満宮の荘園だった事から天神信仰が盛んになり、それが要因で前田家から信仰の対象となり篤く庇護しました。又、藩庁が置かれた大聖山神社から見ると、菅生石部神社の境内が北東にあたる為、鬼門鎮守としても重要視され、菅生石部神社の例祭は大聖寺藩の藩祭に見立てられ、3日間行われた例祭の中日は休日として多くの人が参拝出来るように配慮が成されました。菅生石部神社の社宝も前田家が寄進奉納したものが多く篤い信仰心が窺えます(絹本著色天神画像:3代藩主前田利直寄進・絹本著色寿老人図:4代藩主前田利章寄進・紙本墨画野馬図:5代藩主前田利道寄進・菅生石部神社神門:藩主、有力町人寄進・矢及び上指矢:4代利章、5代利道、9代利之寄進・明青花唐人物図燭台:初代藩主前田利治寄進・阿弥陀名号:2代藩主前田利明修復・菅生石部神社の縁起書:2代藩主前田利明著など)。
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大聖寺藩 |
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大聖寺藩城下町:名所・旧跡 |
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藩主菩提寺 |
実性院 |
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加賀藩領内:名所・旧跡
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石川県羽咋市寺家町に鎮座する神社で、能登国一宮。能登国が前田家領に入ると篤く崇敬されています。
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石川県羽咋市滝谷町に境内を構える寺院で、特に藩祖となる前田利家の側室寿福院が篤く帰依しました。堂宇の多くが加賀藩のお抱え大工が手掛け国指定重要文化財に指定されています。
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石川県小松市那谷町に境内を構える寺院で、特に2代藩主前田利常から篤い帰依を受け気多大社と同様に加賀藩のお抱え大工山上善右衛門が手掛けています。
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加賀藩の藩主である前田家は祖を菅原道真と掲げた事から、天神(菅原道真)を篤く信仰しました。小松城の鬼門、金沢城の裏鬼門に鎮座しています。
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富山県高岡市関本町に境内を構える寺院で、初代藩主前田利長が創建しました。利長が死去すると菩提寺と整備され、仏殿、法堂、山門は国宝に指定されています。
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