・当地は古代の条里制が敷かれていた所で、十六条に位置していた事から十六条村とも呼ばれました。
養老3年(719)に、元正天皇の勅願により、伊賀國名張郡の伊賀寺から十一面観音が美濃國に遷され、それを本尊として勤操が美江寺を開山、養老7年(723)に七堂伽藍が整備され善無畏三蔵が落慶法要を行っています。
寺号は、揖斐川と長良川の氾濫を鎮める為に祈祷が行われ、見事念願成就し、両河川が美しい江(大きな川)になった事に由来すると云われています。
地名は美江寺の寺号に由来し、天文8年(1549)頃に美江寺が稲葉山城の城下町に遷された後も、引き続き地名は継承しています。
旧境内地には美濃国神名帳に「正六位上 美江明神」と記載され美江寺の鎮守社だったと思われる美江神社が鎮座し、美江寺が移転すると衰微しましたが、紆余曲折を経て再興されたようです。
平安時代後期には肥後守高階基実により開発が行われ、嘉応年間(1169〜1171年)には山城法勝寺に寄進されています。
鎌倉時代初頭には法勝寺の荘園である船木庄が成立し、文治3年(1187)4月10日に発給された菅原資高譲状案には「法勝寺御領船木庄内東方只越郷」と記されています。
文明年間(1469〜1486年)には和田八郎により美江寺城を築城、以後、和田氏が城主を歴任し当地を支配しています。
和田氏は美濃国守護職土岐家に従っていましたが、天文11年(1542)9月に対立していた斎藤道三により襲撃され、美江寺城は落城し、廃城となっています。
当地は交通の要衝だったようで、天正17年(1598)には豊臣秀吉の命により問屋場が設けられ、宿場町のような役割を果たしました。
慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いの際には東軍の総大将だった徳川家康が当地まで進軍し、慶長16年(1611)に家康が上洛した際には船橋が架けられています。
江戸時代に入り、中山道が開削されると当初は河渡宿と赤坂宿の間にある間宿でしたが、寛政14年(1637)に正式な宿場町に格上げされ伝馬25疋が常備されています。
寛文5年(1665)に記録された美江寺宿書上によると宿場の規模は5町19間、家屋は75軒、伝馬家、歩行役家はそれぞれ25軒、問屋1軒、庄屋1軒、年寄1軒で構成されていた事が記されています。
本陣は寛文9年(1669)に問屋を担っていた山本金兵衛が加納藩主戸田丹波守光永に命じられ、以後、明治維新まで代々山本家が歴任しています。
庄屋は旧美江寺城の城主だった和田家の後裔が歴任している事から、美江寺城落城後は帰農したのかも知れません。
元禄9年(1696)には加納藩が随原村の小森文左衛門家に酒株を分与し、酒屋1軒を認め、元禄12年(1699)には新町を町割りし32軒を移転させています。
江戸時代後期には天領の大垣藩預かり領となり、天保14年(1843)の記録によると人口582人、家屋136軒、本陣1軒、旅籠11軒、宿高898石と記されています。
難所である揖斐川には、呂久の渡し場があり、江戸時代初期には船頭屋敷が13棟、軒を連ねていたとされます。
文久元年(1861)10月26日には皇女和宮が14代将軍・徳川家茂に降嫁の為、江戸下向し当地を差し掛かった際には、美江寺宿が休憩所として利用され、呂久の渡しの舟中で「落ち行く身と知りながら もみじ葉の人なつかしく こがれこそすれ」と詠っています。
慶長4年(1868)には東征軍東山道鎮撫隊の拠点となり、美江寺宿を発信地としています。
明治24年(1891)に発生した濃尾大震災に被災し、「造り酒屋布屋」など数棟を残し、殆どの建物が倒壊した為、それ以前の町並みは失われましたが、その後に再建された町屋建築が点在し懐かしい雰囲気が感じられます。
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