・赤坂の地は古代美濃国で重要視された所と見られ、4世紀末期頃に築造されたと推定されている昼飯大塚古墳は、墳長約150mの前方後円墳で、岐阜県最大規模を誇り、貴重な事から国指定史跡に指定されています。
鎮守である子安神社は創建年は不詳ですが、三代実録に貞観18年(876)に従五位下の神階を賜った格式の高い神社で、特に安産、子育てに御利益があるとして信仰され、江戸時代には大垣藩主戸田家から篤く崇敬庇護されています。
当地の背後に控える金生山は、金が産出されたとも云われ、朱鳥元年(686)には持統天皇の勅命により、役小角によって明星輪寺が開山したと伝えられています。
天平13年(741)には聖武天皇の勅願で名僧として知られた行基菩薩により国分寺が創建されると、美濃国内での仏教布教の拠点として重きを成しています。
東山道が開削されると、当地がその経路となり、杭瀬川の渡しがあり、対岸には駅家のような役割を担ったと推定される青墓があった事から重要視されたと思われます。
正式な駅家である不破駅が衰微すると、青墓宿が東山道の正式な宿駅になったと見られ、「梁塵秘抄」によると平安時代末期から鎌倉時代には遊女や傀儡子がいた事が記されています。
青墓宿が衰微すると、水上交通の要衝だった赤坂が栄えるようになったと思われ、特に中世の文学作品に「赤坂」の地名が散見されます。
鎌倉時代に成立したとみられる「平治物語」では平治の乱で敗北した源義朝が青墓宿まで落ち延びた際、落ち武者狩に合い、それを見かねた佐渡式部大輔重成が義朝の身がわりとなって赤坂の子安の森で討死したと記されています。
永享4年(1432)に室町幕府6代将軍足利義教の富士見物に随行した堯孝の紀行文である「覧富士記」には「赤坂の宿にて、折に逢ふ秋の梢の赤坂に袖振りはへて急ぐ旅人」と記されています。
同じく義教に随行した飛鳥井雅世が筆した「富士紀行」には、長月12日に「赤坂と申所にて。いまだ夜も明侍らず。友なひ侍る人々も跡におくれ侍を。しばしまち侍しほどに。」と記し、「行つれぬ友さへ跡に殘るよをしはしやこゝにあかさかの里」と詠っています。
室町時代中期の京都・相国寺鹿苑院内に設置された蔭涼軒の歴代軒主が記録した「蔭涼軒日録」に赤坂の地の事が記されています。
室町時代後期に成立したとみられる、謡曲「烏帽子折」「熊坂」では牛若丸が奥州平泉へ下向の折、赤坂宿を訪れた際、諸国の盗賊を束ねていた熊坂長範を討ち取ったというストーリーが展開しています。
戦国時代の公家である山科言継の日記「言継卿記」には元亀2年(1571)に近江国の成菩提院を出発した言継が垂井宿を経由し赤坂宿に到着、そのまま宿泊した事が記されています。
豊臣政権下で池田恒興が大垣城の城主に抜擢されると、当地はその知行下に入り、天正12年(1584)には赤坂に境内を構えていた西円寺に対して禁制を発給しています。
慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いの際には東軍の総大将である徳川家康は赤坂にある岡山に布陣、ここを本陣として勝利した事から、名称を「御勝山」に改めています。
又、関ヶ原の戦いの前哨戦である杭瀬川の戦いで、東軍が敗れた際、中村隊の武将だった野一色頼母が討死、亡骸は当地の一画に葬られ、兜も埋納した事から兜塚と呼ばれています。
江戸時代に入り、中山道が開削されると宿場町となる赤坂宿が開宿し、慶長10年(1605)に家康上洛の際には美濃国の諸大名に命じ、信長ゆかりの「岐阜御殿」を移築させ、御茶屋屋敷が設けられています。
江戸時代初頭は高須藩に属しましたが、寛永5年(1628)に2代藩主徳永昌重が大坂城石垣普請役で不手際により改易、高須藩も廃藩となった為、一時天領となり、寛永10年(1633)以降は大垣藩領に属しています。
杭瀬川の舟運の拠点として経済的にも発展し、明治時代後期には500艘を越える舟運船が赤坂湊を往来したと云われています。
又、赤坂宿は西国第三十三満願札所である谷汲山華厳寺を結ぶ谷汲巡礼街道の分岐点でもあり、特に江戸時代中期以降に一般庶民も行楽嗜好が高まると、赤坂宿を利用する参拝者が増加しています。
天保14年(1843)の記録によると赤坂宿は本陣1軒、脇本陣1軒、問屋場3軒、旅籠17軒、家数292軒、人口1129人と記されています。
本陣職は当初、馬淵家が担いましたが、その後、平田家、谷家、矢橋家が継ぎ、敷地間口24間4尺、敷地面積2反6畝26歩、建坪239坪の規模を誇り、表門と式台付の玄関、上段の間が整備されていました。
本陣の規模は岐阜県内の中山道の宿場町の中では中津川宿に次ぐ大きなもので、江戸時代末期には皇女和宮も宿所として利用しています。
脇本陣は宝暦年間(1751〜1764年)以降は飯沼家が歴任、問屋と年寄役を兼務し重きを成しています。
明治時代以降の脇本陣の施設は町役場、その後は榎屋旅館として利用、現在も母屋部分が残され、貴重な事から国登録有形文化財に登録されています。
文久元年(1861)、皇女和宮が14代将軍徳川家茂への降嫁の折、赤坂宿では54軒の家屋が新築された事から、この時建てられた建物の事を「お嫁入り普請」と呼んでいます。
現在も当時の町屋建築が点在し、懐かしい町並みを見る事が出来ます。
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