上野国十二社

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貫前神社(一之宮)

貫前神社(一之宮)

貫前神社(群馬県富岡市)概要: 貫前神社貫前神社(一之宮)の創建は安閑天皇元年(531)、物部姓磯部氏が氏神である経津主神の分霊を勧請して鷺宮に奉祀したのが始まりと伝えられています。平安時代に編纂された歴史書"続日本後紀"や"日本三代実録"にも記載されていますが、貫前神社と拔鋒神社の2社の社名が記されている事から、2神(経津主神・比売大神)2社説と2神1社説があるようです。延長5年(927)に編纂された"延喜式神名帳"では貫前神社が名神大社に列していた事が記されており、上野国で12社が記載されている内の筆頭である一ノ宮として信仰を広げました。貫前神社は歴代領主や周辺の大名などに崇敬され、上杉氏や小田原北条、武田氏などからは篤く庇護され、特に武田氏は社殿の造営費用を賄ったとされます。江戸時代に入ると貫前神社は幕府から庇護され社領の寄進や社殿の造営などが行われ、明治時代には国幣中社、太平洋戦争後は本庁別表神社となっています。貫前神社の境内は「下り宮」あるいは「下り参りの宮」と呼ばれる形式で参道を一旦登った後、総門から下った所に社殿が配置されています。又、貫前神社社殿は寛永12年(1635)、3代将軍徳川家光が再建したものを5代将軍綱吉が改修したもので本殿 、拝殿 、楼門が国指定重要文化財に指定されています。

赤城神社(二之宮)

赤城神社(三夜沢)

三夜沢赤城神社(群馬県前橋市)概要: 赤城神社(二之宮)の創建は不詳ですが古代上野国を支配した上毛野君(豐城入彦命子孫)を祀っている事からも古くからの産土神として信仰されてきたと思われます。承和6年(839)に従五位下、赤城神社元慶4年(880)に従四位上、長元9年(1028)には正一位の格式を賜り、延喜式神名帳には名神大社に列せられ、上野国十二社の内貫前神社に次いで二ノ宮となっています。当初、赤城神社が一ノ宮だったそうですが機を織っている時に「くだ」が不足になり、貫前神社に借りて織り上げたので、織物が上手で財を持っている貫前神社に一の宮を譲ったといわれています。歴代領主や支配者から崇敬され鎌倉幕府三代将軍源実朝は「上野の勢多の赤城のやしろ やまとにいかで あとをたれけむ」の唄を残し、上杉氏、武田氏、小田原北条氏、大胡氏、由良氏、長野氏など大大名から地元領主まで多くの祈願文や寄進状が残されています。赤城神社の本社は赤城山山頂に鎮座する赤城神社元宮と麓にある二宮赤城神社と三社が名乗っているそうですが当社が本社とする説が有力なようです。赤城神社信仰は広く群馬県118社、埼玉県23社、栃木県9社、茨城県10社、新潟県13社、福島県11社あり合祀されたものを合わせると334社に達するそうです。

伊香保神社(三之宮)

伊香保神社(三之宮)

伊香保神社(群馬県渋川市)概要: 伊香保神社伊香保神社(三之宮:伊香保温泉守護神)の創建年は諸説ありますが由緒によると天長2年(825)に勧請されたのが始まりとされます。当初は榛名山周辺の山々の神である「いかつほの神」を祀っていたとされ鎮座地も現在の三宮神社や若伊香保神社境内にあったと推定されています。続日本後紀では名神に列し後に従五位下、従四位上と格式をあげていて上野国交替実録帳では正一位になっています。延喜式神奈帳では名神大社として上野国12社中、貫前神社、赤城神社に次ぐ三宮の格式を得ています。当初は周辺の領主である有馬氏が庇護し社運も隆盛したそうですが有馬氏の勢力衰退ともに影響力は低下、現在地に遷座し伊香保温泉街の鎮守となったそうです。現在の主祭神は大己貴命と少彦名命の二座で、医療や縁結び、子授け、安産などに御利益があるそうです。

甲波宿祢神社(四之宮)


甲波宿祢神社(群馬県渋川市)概要: 甲波宿祢神社(四之宮)の創建は宝亀2年(771)に勧請されたのが始まりとされます。「続日本後紀」や「文徳天皇実録」、「日本三代実録」といった古文書にも名を連ね延喜式神名帳では上野国十二社の内貫前神社、甲波宿祢神社赤城神社、伊香保神社に次いで上野国四の宮に位置づけられました。祭神は速秋津彦命と速秋津比姫命で吾妻川を守る神とされ周辺住民だけでなく川に関わる人達からも信仰されてきました。同様の神社が他に箱島と祖母島と等間隔で吾妻川沿いにある為、三社で吾妻川を守っているとも考えられているそうです。甲波宿祢神社社殿は天明3年(1783)に浅間山噴火によって崩壊した後の天明5年(1785)に現在地(元々は吾妻川湖畔に鎮座)に遷座再建されたもので建物全体に施された彫刻が渋川市指定重要文化財に指定されています。又、拝殿に奉納されている算額(安政3年奉納、縦80p、横190p)が渋川市指定重要文化財に、例祭に奉納される(元々は境内社である諏訪神社に奉納された。)川島の獅子舞が渋川市指定重要無形文化財にそれぞれ指定されています。

大国神社(五之宮)


大国神社(群馬県伊勢崎市)概要: 大国神社大国神社(五之宮)は垂仁天皇9年に創建された古社です。「大国五護宮縁起」や「伊勢崎風土記」によると、その年、悪天候により民衆が苦しんでいた事から、事態を打開する為に垂仁天皇は朝廷から百済車臨を派遣、百済車臨が当地まで辿り着くと、そこで、清らかな清水が湧出る御手洗池で手を洗う大国主命に出会いました。そこで、この苦難を救うべく大国主命に祈願すると、忽ち天候が回復し、大国主命の姿が消えました。百済車臨がこの事を天皇に報告すると、天皇は神意と悟り、当地に大国主命の分霊を勧請し社殿を造営したと記されています。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳でも式内社として記載されるなど格式も周辺の総社として広く信仰されました。又、古くから神仏習合し、「五護宮」や「第五姫宮」などと称してきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が排除され、旧社号である「大国神社」に復し郷社に列しています。

榛名神社(六之宮)

榛名神社

榛名神社(群馬県高崎市)概要: 榛名神社(六之宮)は綏靖天皇の御代に可美真手命父子が榛名山の山中に籬を立て天神地祇くぉ勧請し創建した古社です。さらに、用明天皇元年(586)に祭祀の場が形成され、信仰の初源を見ました。榛名神社延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では式内社として記載され、当書で記載されている神社の中で上野国に鎮座しているものは12社だった事から上野国十二社に格付けされています。さらに、中世になるとそれらの中で6番目だった事から上野国六之宮とも呼ばれました。歴代領主や支配者から崇敬され、足利氏、上杉氏、小田原北条氏、真田氏などが庇護した為に社運も隆盛しています。江戸時代に入ると徳川将軍家の菩提寺の1つ上野寛永寺に属した為、幕府からの庇護を受けました。榛名神社は古くから神仏習合し満行宮榛名寺が祭祀を司ってきましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により形式的には仏教色は一掃され社号を「榛名神社」に改め県社に列しました。現在でも境内には随神門(仁王門)や三重塔など神仏習合時代の名残が随所に残され風致ある景観を作り出しています。

小祝神社(七之宮)

小祝神社(七之宮)

小祝神社(群馬県高崎市)概要: 小祝神社小祝神社(七之宮)の創建は不詳ですが元慶4年(880)には正五位が贈られ、延長5年(927)にまとめられた延喜式神名帳に上野十二社の第七社として記されています。以来周囲の産土神として民衆から信仰され歴代領主からも崇敬されました。現在の本殿は享保5年(1720)に当時の高崎藩主部越前守詮房により造営されたもので三間社入母屋造り(桁行3間、梁間3間)、銅板葺(元檜皮葺)で正面には3間の向拝が付いています。建物は全体が極彩色で彩られ、壁面に彫刻したパネル状のものを嵌めこむといった工法を用いいます(この工法の神社建築としては高崎市最古。)。小祝神社本殿は享保元年棟札と享保2年奉納額と享保4年寄進銘とともに平成14年に高崎市指定重要文化財に指定されています。又、境内には芭蕉句碑があり「 しばらくは 花の上なる月夜かな 」と記されています。

火雷神社(八之宮)

火雷神社(八之宮)

火雷神社(群馬県玉村町)概要: 火雷神社(八之宮)は崇神天皇元年に創建した古社です。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では式内社として記載され上野国十二社の八之宮として格付けされています。歴代領主である那波廣純や大江那波氏ばどから崇敬庇護され社領の寄進や安堵、社殿の造営が行われています火雷神社。往時は社運も隆盛し広大な境内の四方に大鳥居を構えていましたが戦国時代に大檀那だった那波氏が没落すると庇護者を失い衰微しました。現在の社殿は慶長年間以後に再建されその後数度に渡りか修繕したもので、本殿は三間社流造、極彩色で彩色され、要所に精緻な彫刻が施されています。倭文神社とは関係が深く、倭文神社を上之宮に対し、火雷神社を下之宮と呼んで、地名の由来にもなっています。

倭文神社(九之宮)

倭文神社(九之宮)

倭文神社(群馬県伊勢崎市)概要: 倭文神社倭文神社(九之宮)の創建は垂仁天皇3年に勧請されたのが始まりとされます。古くから格式が高く、三代実録によると貞観元年(859)に官社となり、従五位下に列し、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では式内社として記載されています。又、上野国(現在の群馬県)の格式のある神社が明記された「上野国神明帳」では「従一位倭文大明神」と記載され、序列からすると九番目に辺り上野国の九之宮とも呼ばれました。戦国時代の兵火により衰微しましたが、江戸時代に入ると幕府から庇護され慶安元年(1648)には3代将軍徳川家光より朱印地10石が安堵されました。享保12年(1727)に8代将軍徳川吉宗の許可を得て、引く浄財を集めて社殿を再建しましたが慶応2年(1866)に火災により焼失しています。古くから神仏習合し別当寺院として新義真言宗宮川山慈眼寺が祭祀を司りましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され郷社に列し、大正14年に神饌幣帛料供進社に指定されています。

美和神社(十之宮)

美和神社(群馬県桐生市)概要: 美和神社の創建は崇神天皇の時代に東国鎮護の神として大物主命の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。延暦15年に官社に列し貞観4年に従五位下勲十二等、元慶4年に正五位以下勲十二等、延長15年(927)に編纂された延喜式神名帳では上野国十二社の一つ小社に列せられています。当初は三輪大明神と称していましたが明治時代に入り美和神社に改称し、明治5年に周辺地域の鎮守として郷社に列しています。

賀茂神社(十一之宮)

賀茂神社(十一之宮)

賀茂神社(群馬県桐生市)概要: 賀茂神社(十一之宮)の創建年の詳細は不詳ですが崇神天皇の時代に豊城入彦命が東国鎮護のため賀茂神の分霊を勧請したのがはじまりと伝えられています。賀茂神社延暦15年(796)に官社に列せられると周囲の崇敬を集め元慶4年(881)には正五位下勲十二等を授かり、延喜式神名帳に記載された上野国十二社のうち一社に数えられました。以来、周辺住民だけでなく歴代領主にも崇敬され天喜年間(1053〜58)には前九年合戦の折、源義家が戦勝祈願の為当社を訪れ無楽を奉納したと伝わっています。境内は古墳跡で社宝にはそのこから出土した古鏡や祭器、高杯などがあり、特殊神事として御篝神事や太々神楽がありいずれも桐生市指定無形民俗文化財に指定されています。

宇芸神社(十二之宮)

宇芸神社(十二之宮)

宇芸神社(群馬県富岡市)概要: 宇芸神社宇芸神社(十二之宮)の創建は白鳳7年(678)、倉稻魂神の分霊を神成山山頂付近に勧請したのが始まりと伝えられています。延長5年(927)に編纂された"延喜式神名帳"に記載されている所謂式内社で、上野国十二ノ宮として信仰を広げました。長く古い石段を登ると右側に神楽殿がありさらに登ると拝殿が見えてきます。拝殿は入母屋、銅板葺き、唐破風附の一間向拝を設え、本殿は一間社流れ造り、建物全体が精巧な彫刻が施されて破風や懸魚が朱色に塗られています。境内には小祠が多数軒を連ね多くの神社が合祀されているのがわかります。

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