加納宿の町並の景観や歴史

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宿 場 名
場  所
備  考
・加納宿・岐阜県岐阜市加納本町 
概    要
・当地は平安時代に成立したと思われる平田庄に属し、耕作された土地で、その荘園の付属地として認められた地域の事を加納田と呼ぶ事から、平田庄の付属地が地名化した可能性があります。

文献的初見は建久2年(1191)10月の長講堂領目録に「革手加納郷」と記され、京都六条殿と関係が深く、毎月のように京都六条殿が利用する様々な品々や人足を負担しています。

鎌倉時代中期と思われる六条殿修理料支配状写にも「革手加納郷」と記され油小路に面した築垣一本分の任を担っています。

室町時代に入ると美濃国守護職土岐家の家宰で守護代の斎藤家の支配下に入り、文安2年(1445)には当時の当主である斎藤利永が沓井城を築城しています。

明応4年(1495)に発生した土岐家の内乱である船田合戦に斎藤妙純は勝利したものの、明応5年(1496)に近江の地で討死、これを機に斎藤家内でも内乱となり本家筋は次第に衰微し、沓井城も天文7年(1538)には既に廃城となっていました。

その後は、斎藤家の名跡を継いだ斎藤道三が稲葉山城を居城として下克上を果たし、土岐家を美濃国から追放した為、当地域の中心部は稲葉山城の城下に遷っています。

慶長5年(1600)に発生した関ヶ原合戦では、岐阜城(旧稲葉山城)の城主だった織田秀信が西軍に与した為、改易となり慶長6年(1601)には岐阜城が廃城となっています。

慶長7年(1602)に徳川家康の娘婿である奥平信昌が10万石で当地に入封し加納藩を立藩、藩庁、藩主居館として加納城が築かれています。

加納城の城下町には中山道が引き込まれ、その宿場町である加納宿が整備され、岐阜城下の商人や住民等も集められています。

加納宿は東西約2.3Kmと中山道の宿場町の中では最大級で、美濃国に設けられた16宿のうち最大、中山道沿いの本町筋の他、加納町の東側には笠松街道(別称:御鮨街道)が交差する北広江町から八幡町までの町筋が延びていました。

東隣の鵜沼宿までが4里10町、西隣の河渡宿までが1里半の位置にあり、上記の笠松街道の他、郡上街道も分岐していた交通の要衝でもあり、多くの荷物や旅人が行き交いました。

天保14年(1843)の記録によると本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒、家屋805軒、人口2728人、問屋2軒で構成され、加納宿は城下町も兼ねていた為、合計六ケ所の桝形と三か所の番所がありました。

本陣職を担った松波藤右衛門家は加納宿を開く際に大きく貢献した家系で、慶長6年(1601)に初代藤右衛門が当地に土着して、町並が形成された事から、周辺は藤右衛門町とも云われていたそうです。

文化8年(1811)に行われた伊能忠敬の測量の際には支隊が藤右衛門宅を宿所として利用しています。

文久元年(1861)の和宮親子内親王が14代将軍徳川家茂と婚儀を行う為に江戸に下向する際、藤右衛門宅を宿所とし「遠ざかる 都としれば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり」の歌を詠まれたと伝えられています。

岐阜問屋を担った熊田助右衛門家は古くから広江の地を統治していた土豪だった家柄で、戦国時代には当地の実力者として知られ、織田信長が岐阜城主時代にも問屋職に任命されていました。

江戸時代に入り加納宿が開宿すると継立問屋を担う一方で、尾張徳川家が江戸の徳川将軍家に献上する岐阜町の御鮨所の「鮎鮨」の継立を行い、笠松問屋まで届けられました。

その為、熊田助右衛門家は「御用提燈」を掲げる事を許される等の特権が与えられています。

西問屋を担った三宅左兵衛家も加納町の草分的存在で、左兵衛新田等の開発に尽力、幕末には宮田家と共に当分本陣にも命じられています。

脇本陣は江戸時代中期頃まで森与次右衛門家、その後は森孫作家が担っています。

二文字屋は元和6年(1620)に創業した旅籠で、御勅使や大名高家の御飛脚使宿として利用され、名工として知られた左甚五郎が宿泊した際には、宿代の代わりに月夜に兎が餅をついている欄間の彫刻を施したと伝えられています。

二文字屋は現在も料亭として存続し、皇女和宮が加納宿の本陣で宿泊した際には食事を担当したとされます。

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