今須宿の町並の景観や歴史

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宿 場 名
場  所
備  考
・今須宿・岐阜県不破郡関ケ原町今須 
概    要
・当地は古くは美濃国不破郡居益郷に属し、美濃国の国衙領だったとされます。

承久3年(1221)に承久の乱で功績を挙げた長江氏が当地を与えられると、長江秀景が入部、居城として今須城を築城し、後裔が長く当地を支配しました。

鎮守である青坂神社は天慶から天徳年間に編纂されたと推定される美濃国神名帳に記載されている従四位下青坂明神、又は従五位下長江明神と推定される神社で、秀景が当地に入部すると、祖先の鎌倉五郎景政の御霊を勧請合祀しています。

地名の「居益」は日本武尊が当地に滞在した事から「居る」の丁寧語の「居ます」が転じたとも、室町時代の領主だった長江重景の母親である妙応が、大きさの異なる升を状況によって使い分けていた事が由来になったとも云われています。

正平15年(1360)には重景が母親の菩提を弔う為に妙応寺を開創し、嘉吉2年(1442)には長江元景が寺領を寄進する等、篤く庇護しています。

当地の長江氏は美濃国守護職土岐氏に従い守護代等の要職を歴任しましたが、同じく土岐家重臣の斎藤家と激しく対立するようになり、応仁2年(1468)に斎藤妙椿の侵攻を受け敗北しています。

居城である今須城は落城、長江高景を始め景秀・元景・景次等は討死して果て、一族は方々に落ち延びた為、当地の長江氏は没落し、妙応寺境内には長江氏のものと伝わる墓碑が建立されています。

長享元年(1487)には当時の美濃国守護職の土岐成頼が当地にあった宝鏡寺領を押領をしようとした事から、室町幕府は代官を派遣して管理させたものの、応仁の乱が発生すると、混乱に乗じ美濃国守護代の斎藤利国により押領されています。

当地は交通の要衝で、難所である今須峠を控えていた事から天文年間(1532〜1555年)には関所が設けられています。

武将達も利用し、「信長公記」の天正一〇年(一五八二)四月二一日条には「今洲に御茶屋立て、不破彦三一献進上候なり」と記されています。

豊臣秀吉が天下統一すると、当地は豊臣家の蔵入地に組み込まれ家臣である古田織部重然や石田三成が代官に就任しています。

慶長5年(1600)行われた関ケ原合戦で勝利した徳川家康が近江佐和山城に進軍した際には、当地の有力者である伊東家の庭石に腰を下ろして休憩し、当地が「居益村」と呼ばれていた事から「破れ不る郡、居る所は益々盛ん。天下は巌のように破れず益々栄えるだろう。この巌をいつまでも大切にしておくように」との言葉を賜ったと伝えられています。

ただし、元禄年間(1688〜1704年)には、余りにも住民達の生活が困窮に瀕していた事から、今から須らく好転するという思いを込め、地名を「居益」から「今須」に改めています。

江戸時代に入り、改めて中山道が開削されると宿場町である今須宿が開宿し、当初は天領だったものの、明和7年(1770)以降は大垣藩の預かり地となっています。

天保14年(1843)の記録によると、今須宿の規模は東西10町55間、人口1784人、家数464軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠13軒。

旅籠の件数は中山道の宿場町の中では極端に少ないものの、宿場の規模は第三位、問屋は最盛期に7軒あったと云われ、平井道を経て伊勢街道、濃州三湊に通じる等、交通の要衝として商人達が今須宿を大いに利用した事が窺えます。

本陣は上記の伊東家の後裔が担い、文化6年(1809)に行われた伊能忠敬の第7次測量の際、観測隊は伊東五郎三郎家で休息、その日記には「此本陣旧家にて十五代に及と いう。八代以前慶長五年関ヶ原 役、東照神宮御成の由、神君の 御踏石泰平厳の額あり」と記載されています。

明治2年(1869)には今須騒動が発生、貧困に苦しむ住民が、村役人に借金の返済延期や、貯蔵米の貸下げ、助郷人足賃の支払い等を懇願したものの、受け入れられなかった事から、やむを得ず蜂起、この知らせを聞いた大垣藩は藩兵を派遣し鎮圧しています。

現在も、問屋場だった山崎家住宅や文化5年(1808)に京都の問屋河内屋が奉納した「永代常夜灯」が現存し、懐かしい町並が続いています。

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