鵜沼宿の町並の景観や歴史

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宿 場 名
場  所
備  考
・鵜沼宿・岐阜県各務原市鵜沼西町 
概    要
・鵜沼の地は古代から開けていたと見られ、国指定史跡に指定された坊の塚古墳をはじめ、岐阜県指定史跡に指定された衣裳塚古墳、各務原市指定史跡に指定された金縄塚古墳、大牧一号古墳、大伊木山西古墳等の古墳が点在しています。

坊の塚古墳は4世紀末期頃に築造された推定される前方後円墳で、墳長約120m、後円部直径72m、高さ11.5m、3段築成、前方部幅66m、高さ8.5m、3段築成、岐阜県内第2位の規模を誇り、葺石や埴輪が確認され、副葬品として石製品等が出土しています。

衣裳塚古墳は4世紀末期から5世紀前半に築造されたと推定される円墳で、直径52m、高さ7m、円墳としては美濃地域最大規模で貴重な史跡と評価されています。

律令制下では美濃国各務郡の駅家郷に属し、東山道が開削されると駅家である各務駅が設置され駅馬六疋が置かれています。

地名の初見は藤原宮跡出土木簡に記された「己亥年9 月三野国各□□」「汚奴麻里五百木部加西□□」の「汚奴麻」が「鵜沼」の事とされます。

「続日本紀」神護景雲三年(七六九)九月八日条には「尾張国言、此国与美濃国堺、有鵜沼川…今年大水、其流改道」と記されており、大洪水が発生した事が窺えます。

平安時代中期の貴族・歌人である藤原仲文が編纂した「藤原仲文集」には「行きかよひ 定めがたきは旅人の 心うるまの 渡りなりけり」と記されています。

応徳3年(1086)に藤原通俊によって編纂された「後拾遺和歌集」の中には源重之が発した「東路に ここをうるまといふことは 行きかふ人の あればなりけり」と記されています。

「吾妻鏡」の承久三年(一二二一)六月三日条に「鵜沼の渡は美濃目代帯刀左衛門の尉・神地蔵人入道」と記されており、承久の乱の際、当地に神地蔵人が布陣した事が窺えます。

同六月五日条に「鵜沼の渡は毛利蔵人大夫入道西阿」と記されており、同様に毛利蔵人が当地に布陣した事が窺えます。

室町時代の公卿で古典学者である一条兼良が応仁の乱で奈良に疎開し、家族が居た美濃国に会いに行った際の紀行文である「藤川の記」では「東路の うるまのし 水名をかへは しらしな旅に たつの市人」と記されています。

これらの事から、当地は古くから木曽川の河岸として知られた存在で、戦略的拠点にもなっていたようです。

又、中世に入ると室町院領に属する皇室領庄園である「鵜沼庄」に属し、正安四年(一三〇二)八月には持明院統と大覚寺統との間で折半され、嘉元年間(1303〜1306年)には後高倉院法華堂領三庄の一つに数えられ四条前宰相が領していたとされます。

永享年間(1429〜1440年)には和泉国出身で美濃国守護職の土岐家や守護代の斎藤氏の家臣である大沢薩摩守治利が当地に配され鵜沼城を築いています。

戦国時代の当主である大沢治郎左衛門は斎藤義龍の家臣として重きを成し「東美濃の虎」の異名がありました。

永禄7年(1564)に斎藤家が没落し、織田信長が当地まで侵攻すると、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の調略によって大沢治郎左衛門は織田家に下っています。

しかし、信長から謀反の嫌疑をかけられると、藤吉郎の手引きによって危機を脱したと伝えられ、その後は藤吉郎の家臣になったとされます。

鵜沼城には豊臣家に従った池田恒興、次いで中川定成が配されましたが、天正12年(1584)に発生した小牧・長久手の戦いでは、犬山城の支城として重きを成したものの犬山城の攻防戦が終結すると廃城となっています。

江戸時代に入り中山道が開削されると宿場町となる鵜沼宿が開宿し、慶長15年(1610)には本陣職を担った長兵衛の屋敷八畝歩が除地となっています。

当初の中山道は御嶽宿から土田宿、善師野、内田の渡しを経由し鵜沼宿に到る経路でしたが、その後、御嶽宿から伏見宿、太田宿、うとう峠を経由して鵜沼宿に至る経路に変更になった為、それに伴い慶安4年(1651)に鵜沼宿も北部に移動し、東町と西町が宿場になったと推定されています。

天保14年(1843)の記録によると宿場の規模が七丁三十間、人口246人、家屋68戸、旅籠25軒、内訳は大8軒、中7軒、小10軒、本陣は桜井家、脇本陣は坂井家と野口家が問屋を兼任し交替で務めていました。

本陣の桜井家は、問屋と庄屋を兼ね、江戸時代を通して歴任し、間口21間、奥行28間、建坪174坪、表門、式台付の玄関、上段の間を備える格式の高い建物を有していました。

本陣には大名や公家等、身分の高い人物が宿泊や休息で利用した為、屋敷の裏の竹藪を通って山中にある「大安寺」に脱出出来るような動線が確保されていました。

本陣桜井家は寛延2年(1749)に10代将軍徳川家治に輿入れした五十宮や、伊能忠敬の7次測量で本隊が文化6年(1809)10月16日、支隊が文化8年(1811)3月19日に宿所として利用されています。

又、桜井家は酒造も生業としていた事から松尾芭蕉が鵜沼宿を訪れ、饗応を受けた際に飲んだ菊花酒は桜井家で醸造された酒だと推定されています。

脇本陣を務めた野口家は関ヶ原の戦いで西軍の主力として知られた大谷刑部吉隆の三男である大谷久右衛門吉矩の後裔とされ、吉矩が帰農し美濃国多芸郡野口に土着した事から、地名に因み「野口」姓を掲げたと伝えられています。

もう1軒の脇本陣を務めた坂井家は織田信長に従った坂井右近将監政尚の後裔で、関ヶ原の戦い後は吉矩に従い帰農、貞享5年(1688)に松尾芭蕉が鵜沼宿を訪れた際には宿所として利用されています。

明治24年(1891)に発生した濃尾大地震により大きな被害を受けた為、江戸時代以前の古民家は少ないですが、その後に再建され、国登録有形文化財に登録された坂井家住宅や梅田家住宅、梅田昭二家住宅、丹羽家住宅、安田家住宅、菊川酒造等の歴史的建築物が点在し、宿場町らしい町並みを見る事が出来ます。

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