垂井宿の町並の景観や歴史

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宿 場 名
場  所
備  考
・垂井宿・岐阜県垂井町 
概    要
・垂井町は古代美濃国の中心地で、美濃国府が設置され、美濃国一之宮である南宮大社が鎮座していました。

現在の垂井宿付近は美濃国府や南宮大社に近く、楮の生産地で、良質な水資源があった事から、業務で使用する和紙の生産を行う官が設営した「抄紙場」があり、美濃和紙発祥の地とも云われています。

平安時代中期の公卿・藤原行成の記した日記である「権記」の長保四年(1002)二月一日条には美濃国紙屋長上宇保良信の解文が記されています。

現在でも紙屋の跡地に設けられた紙屋塚には守護神である「紙屋明神」が祀られており、美濃紙発祥の地として貴重な事から垂井町指定史跡に指定されています。

又、平安時代中期の貴族、歌人である藤原隆経が詠った「昔見し たる井の水は かはらねど うつれる影ぞ 年をへにける」の「たる井の水」が地名の由来になったとも云われています。

垂井の泉は現在も湧水が懇々と湧き出ており、岐阜県の名水50選に選定され、岐阜県指定史跡に指定されています。

美濃国府は10世紀中頃に廃絶した為、当地の重要性は失われましたが、当集落は他集落とは異なる様相だったとされる事から引き続き重きを成していた可能性があります。

古代の官道である東山道沿いに位置していた事から中世には既に交通の要衝だったようで、吾妻鏡によると、承久の乱の際、承久2年(1221)6月7日に朝廷軍に勝利して当地まで進軍した幕府軍が野上宿と垂井宿に陣を張り軍議を開いた事が記されています。

同じく吾妻鏡によると、嘉禎4年(1238)2月13日に鎌倉幕府第4代征夷大将軍藤原頼経が上洛の為、当地を訪れた際、垂井宿で宿泊しています。

源家満軍忠状の建武元年(1334)12月23日によると美濃国守護職土岐頼貞に従った美濃国方県郡鵜飼庄の地頭だった源家満が垂井宿で軍忠を報告しています。

文和2年(1353)6月には室町幕府2代将軍足利義詮が南朝方の足利直冬が京都に入った事を受け、美濃国守護職の土岐頼康を頼って後光厳天皇を奉じ、垂井宿に落ち延びています。

垂井町の氏神とされる八重垣神社は、当地に設けられた仮御所に後光厳天皇が入った際、京都の祇園社から御霊を勧請し開創された神社で、天文元年(1532)に現在地に遷座しています。

一方、垂井宿の高台には今須領主長江氏の一族である長屋景頼によって垂井城が築かれ、天文年間(1532〜1555年)に長屋景興が相羽城に本城を遷すまで当地を支配しています。

慶長5年(1600)に平塚為広が1万2千石で入封すると、垂井城を居城としましたが、同年に発生した関ヶ原の戦いで西軍に与し討死した為、垂井城も廃城となっています。

江戸時代に入り中山道が開削され、当地が宿場町に指定されると、美濃路との分岐点、南宮大社の門前町として賑わいました。

寛永11年(1634)7月に3代将軍徳川家光が京都に上洛した際には、本龍寺で朝食を採っています。

本龍寺の8代住職だった規外は松尾芭蕉の門弟だった事から、元禄4年(1691)に芭蕉が支考を伴って、規外の家で冬籠りを行い「作り木の 庭をいさめる 時雨かな」の句を詠んでいます。

天保14年(1843)の「宿村大概帳」によると垂井宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒、家屋315軒、人口1179人で構成されていたと記されています。

又、問屋は3軒で人足50人、馬50疋が常備、毎月5と9の付く日は六斎市が開催され、遠方からも市場を求めて垂井宿に足を延ばしています。

本陣は酒造業を生業とした栗田家が担い、建坪は178坪、表門や式台付玄関、上段の間を備え、大名や公家などの身分の高い人物が宿泊や休息で利用するに相応しい格式を有していました。

本陣は安永9年(1780)に焼失し、その後再建、明治維新後に宿場制度が廃止になると学習義校や役場として利用されています。

脇本陣は金石家が担い、建坪は135坪と本陣と比べて小規模でしたが、同様に表門や式台付玄関、上段の間を備え本陣が他家により利用されていた際には、代用されました。

又、明治維新以降には表門と玄関が垂井宿に境内を構えている本龍寺に移築され、現在は石燈籠だけが往時の名残を伝えています。

さらに、本陣と脇本陣が利用されていた際には旅籠を担った亀丸屋がそれに準じた業務を担い、上段の間が備わっていました。

現在も垂井宿には古い町屋建築が点在し、中でも江戸時代後期に建築された小林家住宅主屋は貴重な事から国登録有形文化財に登録されています。

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