関ヶ原宿の町並の景観や歴史

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宿 場 名
場  所
備  考
・関ヶ原宿・岐阜県不破郡関ケ原町 
概    要
・当地は、古代、和射見や和射見が原などと呼ばれていたとされ、「日本書紀」天武天皇元年(672)6月28日条によると、壬申の乱で大海人皇子が野上行宮に着陣した後、和射見が原に終結してきた、大海軍を視察した旨が記されています。

又、万葉集の中で、大海人皇子の皇子で美濃国不破で軍事の全権を委ねられた高市皇子が和射見の行宮に赴かれた事を柿本人麻呂が詠んでいます。

その他にも「和射見の嶺行き過ぎて降る雪のいとひもなしと申せその子に」と「我妹子が笠のかりての和射見野に我れは入りぬと妹に告げこそ」の二首が万葉集に収録されており、著名な所だった事が窺えます。

平安時代末期頃には、当地の郷士である関ヶ原與市によって開発が行われましたが、承安4年(1174)に従者を伴い上洛した際、牛若丸に粗相を働いた事で、道半ばで殺されたと伝えられています。

中世に入ると、関原郷と呼ばれ、伊福貴社と穂積郷の三ヵ所で構成された久我家領庄園である三村庄に属しています。

関原郷・穂積郷・伊福貴社の3箇所は平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけての武将で、平忠盛の五男である平頼盛の所領でしたが、跡を継いだ頼盛の三男、平光盛が安貞3年(1229)2月29日に後高倉院に申請し邦子内親王に寄進した事で安嘉門院領として三村庄が成立しています。

その後、憙子内親王に受け継がれたようで、嘉元4年(1306)6月12日の昭慶門院領目録に見られる「関所広具」の「関所」が当地の事とされます。

さらに、平光盛の娘が久我通忠の後室になった事から久我家領の庄園となり、観応元年(1350)8月13日の久我長通譲状写によると家督を継いだ久我通相に譲られています。

戦国時代に入り、当地が浅井氏が支配すると、家臣である樋口直房が松尾山城に配されますが、元亀元年(1570)の織田信長の越前侵攻の際、羽柴秀吉に従っていた竹中重治の調略を受け、織田方に転じています。

近江国が織田家の支配下に入ると松尾山城には織田家の家臣不破光治が入りますが、光治は天正3年(1575)の越前一向一揆平定に従軍、功績を挙げ越前国府中の龍門寺城に配された為、松尾山城は廃城となっています。

一方、当地は伊勢街道および北国街道の分岐点だった事から、交通の要衝として重要視されるようになり、天正12年(1584)5月15日の羽柴秀吉朱印状によると、秀吉は近江長浜町中と近江八幡庄中から兵糧米を当地まで輸送するように命じています。

慶長5年(1600)に発生した関ヶ原合戦では全国の諸大名が東西両陣営に分かれて当地周辺で激しい戦が行われています。

周囲に残されている徳川家康初陣地をはじめ、徳川家康最後陣地、石田三成陣地、岡山烽火場、大谷吉隆墓、東首塚、西首塚、開戦地、決戦地は、貴重な事から名称「関ヶ原古戦場」として国指定史跡に指定されています。

江戸時代に入ると中山道が開削され、慶長7年(1602)頃から宿場町の整備が始められたと推定され、同年には関ヶ原町衆による荷物の往来が確認されています。

慶長8年(1603)には老中である大久保忠隣など幕府要人の署名した伝馬手形が関ヶ原宿に発布され、正式な宿場町となっています。

一方、慶長16年(1611)には濃州三湊からの荷物が関ヶ原宿を経由せず、平井道を利用し、直接、今須宿に運んだ事から騒動となっています。

延宝8年(1680)の記録によると宿高1904石、宿場の長さ11町30町、家屋286軒、人口984人、馬役50軒、歩行役94軒、半役61軒、問屋6軒だった事が記され、美濃国に設置された中山道の宿場町の中では加納宿に次ぐ宿場長さで、有数の規模だったとされます。

寛政年間(1789〜1801年)の関ヶ原宿は東町、公門町、仲町、西町で構成されていました。

天保14年(1843)の記録によると、当時は旗本竹中氏領で、人口1389人、家屋269軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠33軒だった事が記されています。

宝暦10年(1760)に発生した火災により、多くの建物が焼失した事から、再建した際には類焼を避ける為に、街道の幅を2倍に広げ、中央には防災用の水路を設けて、街道側の敷地には延焼防止の植栽が植樹されています。

本陣は寛永元年(1624)以降、古山兵四郎家が務め、持高3石4斗、建坪152坪、庭園にあった推定樹齢300年以上、幹周4m以上のスダジイが八幡神社の境内に残され、貴重な事から岐阜県指定天然記念物に指定されています。

又、関ヶ原合戦の様子が将来忘れられる事を危惧し、文化14年(1817)には東首塚の傍らに首級墳碑を建立しています。

脇本陣は、相川家が歴任し、持高6石、建坪79坪、旅籠を生業とし、江戸初期の臨済宗妙心寺派の高僧としてしられた「至道無難禅師」の生家でもあり、現在も表門が残されています。

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