・落合の地名の由来は「新撰美濃志」によると「落合川は宿の東にありて板橋を渡す。恵奈山の釜ケ谷より流れ出で、湯舟の谷とここで落合ひ、北の方にて木曾川に入る。村名もこれに依る」と記されています。
古くから交通の要衝で、畿内と関東、東北地方を結ぶ古代の官道である東山道が開削されると、当地がその経路となり、落合から古代には科野坂と呼ばれていた神坂峠を越えて伊奈方面の阿智駅と結んでいました。
落合五郎遺跡からは九世紀前半頃のものと推定される緑釉陶器片や灰釉陶器片が建物跡の柱穴から出土している事から、東山道の美濃国側の駅家である坂本駅の有力候補地となっています。
奈良時代には名僧である行基菩薩によって開かれたと伝わる医王寺が峠のつづら折りの麓に境内を構える等、開発が進んだと思われます。
平安時代末期には木曽源氏の支配下だったようで、木曽義仲の重臣で四天王に数えられた落合五郎兼行が、木曽谷の西の入り口に当たる美濃国恵那郡落合村(現在の岐阜県中津川市落合)に館を構えたとされます。
落合五郎兼行の館跡には、「おがらん四社」とされる落合五郎兼行神社、愛宕神社、山神神社、天神社が鎮座し、石碑や石灯籠、兼行顕彰碑等が建立されています。
中世に入ると高望親王や千葉満胤の後裔とされる市岡家が入部したようで、天文12年(1542)には市岡半右衛門が高福寺を再興再建しています。
さらに、天正13年(1585)には高福寺の鎮守社だった八幡神社を与坂に遷座し社殿の再建をおこなっています。
一方、天文年間(1532〜1554年)には伊那の国人領主である下条氏が湯舟沢・落合辺を占領したとされます。
豊臣秀吉朱印状写によると天正13年(1585)12月12日に下条牛千世に対して「落合七十五貫文」等が安堵されています。
ただし、同年同月同日には下条牛千世の主家にあたる徳川家康から、美濃国恵那郡落合村を苗木遠山氏の遠山久兵衛に引き渡すよう命じています。
江戸時代に入り中山道が開削されると宿場町となる落合宿が開宿し、町並みが整備されています。
落合村は元和元年(1615)に尾張藩領に属し、尾張徳川家に従った木曾衆である山村甚兵衛と千村平右衛門が240石余ずつを分知され管理下に置かれています。
当初の問屋、庄屋は井口善兵衛と、市岡半右衛門の後裔と思われる市岡喜平次が担い、元禄3年(1690)には尾張表へ落合より鵜沼まで9ヵ宿の願書が提出されています。
元禄11年(1698)には両者が、落合村と馬籠村との国境改めに立ち合い、それに伴い元禄13年(1700)に国境絵図を書上げられています。
天保14年(1843)の宿村大概帳によると、落合宿の家屋数は75軒、人口は370人、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒、内訳は大4軒、中5軒、小5軒。
「濃州徇行記」によると落合宿の長さは3町35間で、江戸方面から横町・上町・中町・下町の四町で構成されていました。
当初は道の真ん中飲料水やに、防火で利用する為に用水が整備され、町並みの上りと下りの端には防衛、防犯の為に桝形が設けられていました。
又、寛政4年(1792)12月には火災防止と夜間での防犯防止を担う為、秋葉様の常夜灯4基が設けられ、現在でも上町のものが往時の姿を留め、貴重な事から国指定史跡に指定されています。
本陣は上記の井口善兵衛家の後裔と思われる井口五左衛門家が歴任し、脇本陣は市岡喜平次家の名跡を継いだ塚田弥左衛門家が担っています。
又、落合村の千村家領は井口家、山村家領は当初は市岡家、その後は塚田家が中心的な役割をもっています。
井口家は加賀前田家が参勤交代で、中山道を利用した際の常宿だった事から、文化元年(1804)と文化12年(1815)に火災で焼失し、文化15年(1818)に再建した際、前田家から表門が寄進されたと伝えられています。
井口家の邸宅は、文久元年(1861)に皇女和宮親子内親王が公武合体政策により14代将軍・徳川家茂の降嫁の際に休憩所として利用され、明治13年(1880)の明治天皇巡幸の際にも御小休所となっています。
井口家住宅は江戸時代末期の表門や、上段の間、小姓の間等が残されている本陣建築の遺構で、歴史的背景も貴重な事から国指定史跡に指定されています。
又、旧信濃国と旧美濃国の国境付近から落合字新茶屋、山中地区までの約840mは一部石畳が残る等、当時の中山道の雰囲気が感じられ、貴重な事から国指定史跡に指定されています。
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