・当地が何時頃発生したのかは判りませんが、明徳元年(1390)5月6日に発給された足利義満御教書によると、美濃国揖斐郡に境内を構えている瑞巌寺に対して「中津河地頭職」を任じており、当地の事との説があります。
当地は交通の要衝だった事から、早くから宿場町として形成されていたようで、文禄2年(1593)には常陸国を領した大大名である佐竹家の家臣、大和田重清が当地を通過した事を日記に記しています。
慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いの際、東軍に協力した山村良勝が、中山道の先導役等の功績から、父親の山村良候(道祐)が隠居領として中津川領1千3百石余が与えられています。
慶長6年(1601)に中山道が開削されると、宿場町に指定された為、改めて宿駅として整備されました。
中津川宿の本陣を担った市岡長右衛門家は和銅6年(713)に勅命により東山道の警備を命じられ「督ノ城」に配されたと伝わる旧家で、当地の庄屋や問屋職等の要職を歴任しています。
脇本陣を担った森孫右衛門家は、戦国時代に織田信長に従った美濃金山城主森長可の一族とも云われ、本家筋が川中島に移封後は岩村に土着しました。
その後、森家は貞享元年(1684)に中津川に移り住み、屋号「岩村屋」を掲げて享和3年(1803)頃から脇本陣、問屋等の要職を歴任しています。
中津川村の庄屋を担った肥田九郎兵衛家は戦国時代に明智光秀に仕えた肥田玄蕃義直の後裔で、光秀の小姓を務めた肥田帯刀則家の子供である肥田政平が当地に土着し、屋号として「田丸屋」を掲げ、中津川宿の問屋役等の要職を歴任しています。
中津川宿の年寄役を務めた間家は戦国時代に近江国守護職だった京極家に仕える武士だった家柄でしたが、京極家が没落すると当地に土着し、二代目杢右衛門が娘婿を商家から迎えています。
その後の間家は当地の豪商として繁栄し東濃一の豪商と評されました。
当地は木曾代官を歴任した山村家領で、重要拠点だった事から山村家の代官所が設けられ、周辺の年貢の徴収や宗門改め、川除け見分、秋の検見役等が行われています。
江戸時代中期の文人・狂歌師として知られた、御家人である大田南畝が筆した「壬戍紀行」によると、「駅舎のさきにぎはゝし すべて此わたりより家居のさまよのつねならず屋の上には大きなる石をあげて屋ね板をおさふ寒さ甚しければ瓦を用ひがたく壁の土もいて落つるにや板をもてかこめり」と記されています。
中津川宿は中山道と、飯田地方、三河地方を結ぶ飛騨街道、名古屋城下を結ぶ下街道が分岐する交通の要衝として発展し、毎月、三と八の付く日に「六斎市」と呼ばれる市が開催される等、大いに賑わいました。
江戸時代後期の尾張藩の藩士である樋口好古が筆した「濃州徇行記」によると「此宿町並は寅の方へさし町の長十町七間あり 町の名は下町 横町 本町 新町 淀川とつづけり 家数百七十五戸 男女千二百廿七人あり 是は豊饒なる處にて 商家多く 町並屋づくりよし……」と記されています。
中山道は東海道に比べて、距離は長かったものの比較的に難所が少なく、関所でも厳しく吟味される事が無かった為、女性の利用が多かったと云われ、伏見宮邦永親王の第4王女である比宮、増子女王が9代将軍・徳川家重世子時代の輿入れの際や、
有栖川宮織仁親王の第6王女である楽宮、喬子女王が12代将軍・徳川家慶の輿入れの際、
関白一条忠良の14女である寿明君、一条秀子が13代将軍・徳川家定の輿入れの際、
仁孝天皇の第8皇女である和宮、親子内親王が14代将軍徳川家茂の輿入れの際には中津川宿の本陣を宿所として利用しています。
江戸時代末期に中津川宿の支配層だった市岡殷政や間秀矩、肥田通光等が平田篤胤の門人だった事から、当地は尊王攘夷運動の拠点にもなり、文久2年(1862)には桂小五郎が中津川宿に身を隠しています。
長州藩主毛利慶親が参勤交代で当地を通過した際、両者は密かに3日間会議を行い、その結果、長州藩が尊皇攘夷に転じたとも云われています。
又、元治元年(1864)に水戸天狗党が中山道を利用し、上洛を目指し中津川宿を通過した際、宿場の住民は積極的に食事の用意や怪我の治療に当たったとされます。
現在も街道沿いには伝統的な町屋が散見され、往時の雰囲気が一部感じられます。
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