| ・江戸時代に入り中山道が開削されると、当地が交通の要衝だった事から、慶長7年(1602)に宿場町に指定されました。
慶長7年(1602)2月24日には当時から有力者だったと思われる野呂氏に対し侍馬朱印状が発給されており、中山道開削直後に御嶽宿が成立し伝馬制が施行された事が明確となっています。
野呂氏の出自の詳細は判りませんが、織田信長の家臣で兼山城の城主だった森武蔵守長可の家臣の中に野呂助左衛門宗長の名が記されています。
天正12年(1584)に小牧長久手の戦いが発生すると、長可は豊臣秀吉に与し、助左衛門も従軍したものの、羽黒の戦いで徳川勢の襲撃を受け敗北しています。
長可が敗走すると、助左衛門は子供の助三郎と共にしんがりを務め、追撃してきた徳川方の松平家信と対峙、あと一歩のところまで追い詰めたものの、家信の家臣松平貞治に隙を突かれ討ち取られています。
父親の討死を知った助三郎は形見の小刀で髻を切り落とし、母親と奥方に渡すよう家臣に託すと、単騎で敵の大軍に切り込み壮絶な最後を遂げたと伝えられています。
野呂一族は一目置かれる存在だったようで、松平家信は、野呂助左衛門を討ち取ったことが評され、徳川家康から感状を賜っています。
上記の野呂氏と御嶽宿の野呂氏との関係性は判りませんが、当家は江戸時代を通して本陣職を担い、慶長7年(1602)6月2日には大久保十兵衛長安など四奉行から路次駄賃の定書が発給されています。
さらに、同年6月10日には江戸町年寄の奈良屋・樽屋の両名から裏書に大久保十兵衛他3名の連署がある定路次中駄賃之覚が発給。
重ねて、慶長8年(1603)10月2日には大久保石見守から伝馬定書が発給されています。
本陣を務めた野呂家には参勤交代で中山道を経路として利用した大名や、公家、幕府の要人などが宿泊や休息で利用し、特に加納藩、大垣藩、越前大野藩、彦根藩が定宿だったようです。
屋敷には格式の高い人物が利用する表門や式台付の玄関、上段の間が設けられ、前棟、奥棟合わせて室数24、畳数172畳、建坪181坪、土蔵3棟、物置3棟、非常時には北側にある宝積寺に抜けられるような工夫が施されていました。
文政6年(1809)には伊能忠敬が第七次測量の際に野呂弥五右衛門家を宿所として利用しており、その際、代官手付吟味方である杉本八五郎が見舞いに来た事や井尻村字鬼門坊に和泉式部廟があった事などが日記に記されています。
地名の「御嵩」の由来は諸説あり、古代の大和政権が直轄支配した土地や、そこにある穀物を納める倉とされる「屯倉」が転じた説や、当地から御嶽山を「見上」げる事が出来た事が転じた説、当地に境内を構えている大寺山願興寺の南山に大和の金峯山から蔵王権現が飛来した事から「御嶽」と呼ばれるようになった説などがあります。
天保14年(1843)に記録された「中山道宿村大概帳」によると御嶽宿の長さは4町56間、家屋は66棟、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠28軒、問屋1軒、人口は600人。
上町・仲町・下町の3町で構成され、西端に位置する大寺山願興寺の門前は桝形が設けられていました。
願興寺は弘仁6年(815)に伝教大師最澄が開創したと伝わる天台宗の古刹で、往時は寺運が隆盛し、当地も願興寺の門前町だったとも云われています。
本尊の薬師如来像の胎内には、近くにあった尼ヶ池に蟹の背に乗って出現した金色の薬師仏が納められた事から蟹薬師との別称があり、信仰の対象となっています。
現在の本堂は元亀3年(1572)に武田勢の兵火によって焼失した後の天正9年(1581)に再建された建物で国指定重要文化財に指定されています。
願興寺は寺宝が多く、所有している木造薬師如来及び両脇侍像、木造阿弥陀如来立像、木造阿弥陀如来坐像、木造釈迦如来及び両脇侍像、木造四天王立像、木造十二神将立像が国指定重要文化財に指定されています。
「竹屋」は本陣野呂家の分家が掲げた屋号で、往時は木綿や材木、質屋などを生業とした御嶽宿を代表するような豪商として発展しました。
敷地内には明治10年(1877)に建てられた主屋と明治36年(1903)以降に寺院から移築された茶室が残され貴重な事から御嵩町指定文化財に指定されています。
現在の御嶽宿は多くの建物が建て替えられ、往時の雰囲気が失われつつありますが、古い町屋建築が点在し、懐かしい町並みが見られます。
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