河渡宿の町並の景観や歴史

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宿 場 名
場  所
備  考
・河渡宿・岐阜県岐阜市河渡 
概    要
・美濃国諸旧記によると永長年間(1096〜1097年)に源義綱の四男である美濃四郎源義仲が当地に住んだと記されています。

承久3年(1221)に発生した承久の乱では後鳥羽上皇に与した鏡久綱が、尾張川の戦いで敗北後、当地まで退き幕府軍と戦ったとされます。

戦国時代の公家である山科言継の日記「言継卿記」の永禄12年(1569)11月12日条によると、山科言継は垂井を出立し、赤坂、門尻江戸を経て岐阜城の城下に至った旨が記されており、「江戸」が当地の事とされます。

天正11年(1583)11月13日に発給された稲葉一鉄書状によると、「江渡」から北方城に遷って籠城した安藤守就を加納悦右衛門が打ち破った事を評し、大野郡内の、野村、更地村、西上秋村の三ヵ村を安堵した旨が記されており、「江渡」が当地の事とされます。

河渡城は奥州出身で土岐家に従い所領300貫が安堵された井戸十郎が築いたとされますが、24年間知行の末、稲葉良通に破れ、良通の嫡男である稲葉貞通が配されたとも云われています。

その後、当地が織田信長に従い旧美濃三人衆に数えられた安藤守就領になると嫡男の安藤定治が配されています。

定治は織田家の家臣として大河内城の戦いや長島一向一揆平定、有岡城の戦い等に従軍し、天正5年(1577)には津田宗及の茶会に出席している事から一定の地位が確立しています。

しかし、天正8年(1580)、甲斐の武田勝頼に内通した嫌疑がかけられ、父親の安藤守就と共に改易、稲葉良通の預かりの身となり美濃国武儀郡谷口村に蟄居しています。

天正10年(1582)に本能寺の変が発生し、織田信長が横死すると、定治は守就と共に河渡城や本田城、北方城に侵攻し旧領奪還を試みましたが稲葉軍に敗北し討死しています。

当地は軍事的要衝だった事から重要視され、慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いの前哨戦の一つ米野の戦いで、西軍敗北の報を受けると、石田三成は増援として当地に舞兵庫を派遣しています。

岐阜城が東軍に包囲されると、三成は救援の為、大垣城を出陣しましたが、河渡に布陣していた藤堂高虎隊、黒田長政隊、田中吉政隊に迎撃され進軍を阻まれ、大垣城に撤退しています。

江戸時代に入り中山道が開削されると、当地は長良川の渡しがあった事から、慶長16年(1611)に徳川家康が上京の際には長良川に船橋が架けられています。

又、河渡の地は加納宿まで一里半、美江寺宿まで一里七町という距離間で長良川が控えていた事から寛永12年(1635)頃に54番目の宿場町である河渡宿が開宿しています。

江戸時代後期の記録によると河渡宿は本陣1軒、旅籠屋24軒、内訳は大4軒、中9軒、小11軒、酒屋、薬屋、豆腐屋、煙草屋等が記されています。

人口は272人、家屋64軒、本陣は水谷治兵衛家、問屋は久右兵衛家と八兵衛家、庄屋は水谷徳兵衛家が担い諸大名の参勤交代の際には御配馬役や歩行役を行っています。

宿場の規模は三町程で、東町、中町、西町の三町で構成され、天領だった時代には隣接する本田村に本田代官所が設けられていました。

本田代官所は寛文10年(1670)に設置されましたが、明和7年(1770)に大垣藩に併合され、当地は大垣藩預かりとなっています。

文化12年(1815)に長良川で未曾有の洪水が発生し、河渡宿も大きな被害を受けると、文化15年(1818)に当時の代官だった松下内匠が宿場全体を5尺の土盛を行ってから再興した為、以後、洪水の被害が激減しています。

その後、当地の住民は松下内匠の遺徳を偲び、松下神社を設け、その境内に石碑を建立しています。

昭和20年(1945)の岐阜空襲により被災し、多くの建物が焼失した為、古い町並みが失われています。

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